第2話 under the moonlight
海からの帰り道、二人は手を繋いで歩いた。
東の空は夜に塗り替えられ、西の空は残光に彩られ青紫をしていた。
「すっごく楽しかった。誘ってくれて、ありがとう」
照れることなく、強がることなく。ありのままの気持ちをすっと口に出せたことが初菜は嬉しかった。
「こちらこそ楽しかったよ。付き合ってくれて、ありがとう」
そう言ってもらえることが嬉しかった。
「こんな日がいつまでも……続くといいね」
初菜の言葉に和樹は頷いた。同じ時間、空間を分け合って、同じ歓びを分かち合って。年をとった二人が、お茶菓子をつまみながら今日の出来事を懐かしそうに話す様を、初菜は想像した。夫婦としてか、長年の親友としてかは解らないけれど、遠い未来までの道のりを、この少年とずっと一緒に歩んで行きたいと思った。
「そういえば、あの時もこうして手を繋いで歩いたね」
「……あの時……って、いつだっけ?」
問い返す初菜に、和樹は穏やかに答えた。
「……俺たちが出会った日だよ」
小学校が終わった後、初菜は毎日のように児童館で遊んでいた。初菜の両親は共働きで夜になるまで帰ってこない。ある日和樹は頼まれて、初菜を迎えに行ったことがあった。残業で帰りが遅くなる、初菜の親の代役ということだった。面倒くさいとゴネてはみたものの、結局行く羽目になった和樹は、内心あまり面白く無かった。隣の家に引っ越して来た初菜という少女は、顔こそ知っていたものの自分とは何の接点も無い。時折、朝の通学路で顔を合わせるだけ。律儀に挨拶なんてしない。もちろん初菜の方から挨拶をしてくれば、返してやらないことも無いが、わざわざこちらからしようとは思わなかった。
肌を刺すような秋の風に、和樹は思わず身震いをした。どうしてわざわざ、こんなことをしてやらなければいけないのだろう。細い三日月の出た十一月のあの日、二人は初めて言葉を交わした。
「月のはつな、だったよな?」
自分よりも二十センチ以上背の高い少年に呼びかけられ、初菜は言い知れぬ恐怖を感じた。無言で頷きながら、探るような目を向けてくる初菜に和樹は苛立ちを覚える。
「おまえを迎えに来たんだよ。家、隣だからさ」
初菜は和樹を見上げ、小さく「ありがとう」と言った。和樹はくるりと背を向け、初菜は慌てて和樹に並んだ。
話題も無く、無言のまま二人は歩いた。和樹は内心焦っていた。何か、話さなくちゃ。理由も無くそんな考えが頭に浮かんだ。気詰まりだった。ふと見ると、初菜の肩が震えていた。
「寒いのか?」と和樹は聞いた。初菜は驚いたように目を見開き、「ううん」と言った。細い月の光に、初菜の濡れた頬が見えた。和樹はぎょっとして立ち止まった。
「おれ、何かしたか? 何で泣いてんだよ」
「……別に」
初菜も立ち止まり、素っ気無く答えた。
「そっか」
何で泣いてるんだ? とは聞けなかった。本当は、気になって気になって仕方が無かったけれど、それを聞いて本格的に泣かれても困る。再び和樹は歩き出し、初菜はそれに続いた。
「……手、繋いでもいい?」
照明に彩られたトンネルを抜けた辺りで、唐突に初菜がそう言った。
「お母さんはいつも、繋いでくれるの」
女と手を繋ぐなんてあまりにもダサい、と和樹は思った。けれど、この女の子を泣かせたことが母にバレたら……。
和樹は少し迷った後、黙って左手を差し出した。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
夜の闇に包まれて心細かったのだろうか、突然の初菜の元気な声に和樹は戸惑った。
「あ、ああ……」
小さな手から伝わる柔らかさに、和樹ははずかしさを覚え、三日月の空を仰ぎ見た。
「知ってる? お月さまにはうさぎさんが住んでいてね、お餅をぺったんこっこってついてるんだって」
そんな和樹を見上げながら、得意そうに鼻をぴくぴくさせる初菜を、和樹は笑った。
「そんなのいるわけないよ。月には『さんそ』が無いんだもん」
自分の方が物知りだというところを見せたくて、和樹は言い返した。
「えぇ、いるんだもん。お母さんがそう言ったんだもん」
「いないってば。サンタクロースとおんなじで、信じてるのはガキだけだって……」
途中まで言って、しまったと和樹は思った。恐る恐る見ると、初菜の瞳にじんわりと涙が浮いているのが見えた。
「あ、いや、その……」
次の瞬間、初菜は火がついたように喋り出した。
「どうしていないって言い切れるの? お兄ちゃん、お月さままで行ったことあるの? サンタさんだっているんだもん。いなかったらプレゼントなんて貰えるわけないじゃない。ひょっとしてお兄ちゃんプレゼント貰ったことないの?」
「……悪い……」
親に言われて迎えに来て、プライドを捨てて手を繋いで、そして今度は小三のチビ女に謝って……。理不尽だと思った。胸に芽生えた悔しさが、和樹の声を不機嫌にした。
嫌な沈黙の後、小さく初菜が呟いた。
「……お母さんは……嘘つきじゃないもん……」
「……ほんと、ごめん……」
不意に罪悪感に胸を満たされ、和樹はもう一度謝った。三度(みたび)、沈黙が訪れた。取り返しがつかないことをした、と和樹は思った。
せめてものお詫びに、初菜の小さな手をぎゅっと握った。自分が否定してしまった、この子の母親に代わって。
「……それに、うさぎさんがいなかったら……お月さまは一人ぼっちになっちゃう……」
「……月、きれいだな……」と和樹は言った。靄のような雲を身に纏う月は実際綺麗だったし、何よりじっと黙っているのは耐えられなかった。口を開かない初菜に責められているような気がしたのだ。
「……あたしの名字は月のって言って、お月さまの『月』なんだよ」
言葉を返してくれた事に、和樹は何よりもほっとした。っ少々気は早いのだけれど、胸のつかえがとれたように感じた。
「月の野原か……いい名字だよな」
ご機嫌をとるように和樹は言った。格好悪かろうがなんだろうが、嫌な沈黙だけは避けたかった。
「おれなんて、『本山』……本の山だぜ? ガリ勉君じゃあるまいし……」
「でも、あたしご本好きだよ」
「『ヅリとヅラ』とか、『鼻裂けじいさん』とか?」
「嫌いじゃないけど……今読んでるのは、『グリックの冒険』っていうご本。面白いんだよ? リスさんが主人公なの」
「ふ~ん……今度読んでみようかな……」
「ほんと!? 興味があるなら貸してあげるよ!」
その一言が生み出した和やかな雰囲気の中、二人は一気に話を弾ませた。初菜の前の小学校の話、和樹たち男子が最近ハマっている遊びについて。縄跳びが苦手な和樹に交差飛びを教えると初菜が言い、代わりに坂上がりを教えてやると和樹は言った。そんなことを話しているとすぐに、二人の家が見えてきた。
住宅地の方から聞こえてきた犬の吠え声に、和樹の手が力強く握り締められた。その瞬間、和樹の中に護りたいという意識が芽生えた。小さな背丈のせいか、年齢よりも更に幼く見えるこの臆病な少女を。
「……大丈夫……」と和樹は言った。
「……おれが……ついてる……」
こくりと頷いた初菜を見て、へへっと和樹が笑った。
この道を通る時、いつも初菜は怖い思いをしているのだろうか。和樹はそんなことを思った。
その後、まだ帰らない親を待つ間、初菜は和樹の家でご飯を食べた。和樹と一緒にテレビを見たり、トランプをしたりと楽しく過ごすうち、初菜は疲れ眠ってしまった。気がついたら外は明るくて、自分の布団に寝かされていて……。
ぼんやりとした頭で朝ごはんを食べて、学校へ行く用意をして。昨日のことは夢だったのだろうかと、不安に思いながら靴を履いた。そうして玄関を開けて、学校へ向かう途中。昨日も通ったトンネルの前で。
「おはよ、『月』」
聞き覚えのある声が後ろから聞こえた。心が浮き立つように嬉しくなって、振り返る。
「お兄ちゃん、おはよっ!」
「そういえば、何であの時泣いてたの?」
「……だって、いつも来ていたお母さんが来なかったから、見捨てられちゃったのかと思ったんだよ。代わりに来たのは怖そうなお兄ちゃんだったし、それに……外は暗かったしね」
「……だから手を繋いだ途端、元気になったのか……。そういや、月は昔っから怖がりだったもんな……」
「……いいじゃん、別に……」
膨れてみせる初菜に、和樹は笑った。
「……あの後、本当に交差飛びをさせられるとは思わなかったよ。あの頃は男子と女子に溝があってさ、女と遊ぶのは格好悪いって意識があったんだ」
「……それで、なんだかいつも嫌そうにしてたんだね。ごめんね、つき合わせて」
「ばか、いいんだよ。普段男とばかり遊んでいたから、なんだか新鮮で楽しかった。それに、恋かどうかは解んないけどさ、気付いたら月の前でいい格好見せようって、そんなことばっかり考えてた」
あの日と同じように繋がれた手。空には三日月。タイムスリップしたような錯覚を初菜は覚えた。
「知ってる?」と初菜は言った。
「お月様にはうさぎが住んでいてね。お餅をぺったりらんってついてるんだって」
「知ってる」と和樹は言った。
「さすが、『お兄ちゃん』だね」
微笑む初菜と和樹の視線がぶつかる。今日だけで、幾十回も繰り返されたことなのに、それだけで胸の鼓動が早くなる。
あの日、二人を結びつけるきっかけになったのは月だった。
「……月、綺麗だよ……」
瞑った目の奥に、淡い月の光が見えた。唇を通して、二人の『好き』が重なった。痺れるような感触が全身を駆け巡り、初菜は微かに息を漏らした。
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