Last Blue
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第1話 あの夏、記憶の中だけの夏
昔、どこかの誰かが考えた『水平生活』という言葉はまさに、今の私の為にある言葉だと思う。何も生産することもなく、時は緩やかに流れ過ぎ去っていく。果てしなく続く時間には限りがあって、今日もまた星はどこかで生まれ、消えていく。
雨の香りを含む六月の風が木の葉を揺する、さやさやという音が聞こえる。初菜(はつな)は枕元に積まれてある、ハンドサイズのノートにそっと触れた。ノートの上に置かれていた青水晶のペンダントがかちゃりと音を立てた。
一
「夏だ! 海だ! 白い砂浜が私たちを呼んでいる!」
ビーチサンダルの立てるパタパタという音が、熱砂の浜に吸い込まれていく。大げさな身振りで感動を表す小柄な少女、月野初菜は高校一年生の十五歳。
「……俺はクーラーの効いた部屋に、呼ばれてるんだけど……」
初菜の傍らの少年、本山和樹は十七歳の高校二年生。二人が出会ったのは、七年も前のこと。咲坂市に引っ越して来た初菜に初めて出来た友だちが、隣の家の『お兄ちゃん』こと和樹だった。
「波の飛沫! ぎらぎらと輝く真夏の太陽! あぁ、なんてアバンチュール!」
「……とりあえず、かき氷食べない? 頭、冷えるしさ」
和樹の呆れた声にも、どこか楽しそうな響きが混じる。風が初菜の短めの髪を揺らし、潮とシャンプーの混じった独特の香りが和樹の鼻をくすぐった。
咲坂市から電車で一時間。八月の蔡ヶ浜は、沢山の人々で埋め尽くされていた。
「うーみーはひろいーなおおっ……とっととと」
前のめりになって転びかけた初菜の手を、和樹は素早く引き寄せる。勢いのまま二人は抱き合った。薄いTシャツ越しに初菜には和樹の、和樹には初菜の鼓動が届く。手を握り、身体を密着させたまま固まる二人。抱きしめた初菜の身体から、微かに汗の香りがした。
初菜はゆっくりとまぶたを閉じた。引き寄せられるようにそっと、唇が重なり離れる。一秒ちょっとのフェザーキス。
唇に残るほのかな感触に、初菜はぼんやりと目を開けた。目の前に和樹の端正な顔があって、視線が交わるのを感じる。
胸のどきどきが止まらない。頬が上気して赤くなる。握ったままの手が汗ばんでいた。潮風が吹いて、弾かれたように二人は離れた。
打ち寄せるさざなみの調べを聞きながら、海と平行に二人は歩き出した。浜を彩る桜色の貝殻を捜すように、初菜は俯いたまま、潮の満ち引きを確かめるように、和樹は海を見つめたまま。
初菜はそっと、和樹の横顔を盗み見た。和樹が視線に気付く前に、視線を砂の粒へと戻す。胸の中の何とも言えない温かさが、知らず初菜の頬をだらしなく緩ませた。そんな自分を見せるのがはずかしくて、じっと足元に目をこらす。けれど十歩も歩かないうちに、衝動を抑えきれなくなって和樹の横顔を覗き見てしまう。
何度目かに顔を上げた時、ばっちりと目が合ってしまい、初菜はぎこちなく笑った。和樹の顔もぎこちなかった。初菜のぎこちなさが、伝染ったのかもしれない。口の端が引きつるように震えて、初菜はたまらず瞳を逸らした。
「……月……」
和樹が初菜をそっと呼んだ。名字の月野からとって、『月』。応えるように初菜は握った手
に力を込めた。口を開くと想いが溢れて、みっともない声になりそうだから。
和樹は俯く初菜を見つめた。水色のミニTシャツからすらりと伸びる足には、風に混じっていたのだろうか、細かな砂がまぶされていた。嬉しそうに頬を緩ませる初菜の、朱い唇が薄っすらと濡れていた。
長く妹のように思っていた幼なじみの、ちょっとお馬鹿な言葉を吐き出す唇に、和樹は女性を感じていた。
ぎゅっと手を握ったまま、二人は歩いた。会話は無かったけれど、そっぽを向いて、お互いをちらちらと見て。たまに目が合って、ぎこちなく笑い合って。
「着いちった……」
不意に和樹が呟いて、初菜が顔を上げた。白地の旗に赤で『氷』と大きく書かれた旗が、招くように揺れていた。自然に手が離れ、二人の心がざわめいた。思わず顔を見合わせてしまい、
「何度目だろうね?」と和樹が笑った。初菜にも答えは解らなかった。
店の近くに置かれていた椅子に座って、二人は海を見ながらかき氷を食べた。和樹がこめかみをくっと抑えたのを見て、初菜は笑った。
「青い空、手元にはブルーハワイ。南国気分だね、和(かず)君(くん)」
「……それは月だけ。俺食ってるのイチゴだし」
「それじゃあ、えっと……庭園気分……?」
「……誰かから聞いたんだけど、かき氷のシロップって味はみんな同じらしいよ。匂いと色だけしか違わないんだって。だから、違う味でもみんな同じ値段だし、シロップをいろいろ混ぜても変な味にはならないんだって」
「もう、駄目だよ和君。そんな夢のないこと言っちゃ。ブルーハワイはブルーハワイ味で、イチゴ味はイチゴ味なの。騙された者勝ちって言うでしょ。神様も超能力もUFOも、あった方が楽しいんだからあるの。シロップの成分を分析したり、科学的な実証をあれこれして、片っ端から夢を壊してもつまんないよ」
「すまん、月。俺が悪かった」
なんだか難しい話になりそうな予感がしたので、和樹はさっさと謝った。もちろん、自分が悪いとは思わないけれど、ここで粘ると後々面倒なことになる。初菜の理論は整然どころか、飛躍が凄く、理解することは難しい。早口が生み出す勢いも相まって、このテの議論で和樹は初菜に勝ったためしが無かった。
しかも議題がまた、『星野屋の牛丼と夏屋のカレーはどちらのコストパフォーマンスが上か』だとか、『柿本鳩麻呂と中臣塊はどちらがハンサムか』とか、非常にくだらないものに終始していた。是が非でも勝ちたいという議論ならともかく、今回のような『かき氷のシロップは、同じ味か否か』等という議論に熱くなるのも……というのが和樹の気持ちだった。
「はっはっはっ、解ればいいのだよ、和君」
得意げに胸を反らす初菜の子供じみた仕草がおかしくて、和樹はふふっと笑った。
「あっ、何で笑うかなぁ。もっと悔しそうにしな……」
言いかけた初菜のブルーハワイを一掬い。イチゴ味とはやっぱり、同じような……でもなんだか違うような気がする。
逆襲を予想して、和樹は初菜が食べやすいようにかき氷を近づけた。初菜はぱっと頬を染めたまま、遠慮がちに小さく一口。
……和君の……
「……味がする……」
「ん?」
「やっぱりイチゴの味がするね!」
あははと笑う初菜は耳まで赤くなっていた。
「そう、だね。ブルーハワイもブルーハワイ味がしたよ」
「トロピカーナ♪ って感じだよね」
「そ、そうだね」
付き合いだしてから二月(ふたつき)。幼なじみと恋人。かき氷のシロップのように二つは良く似ていて、それでもやはり何かが違う。
かき氷屋の風鈴が涼しげに唄った。
露出の大きな白いビキニに着替えた初菜に、和樹は思わず立ち尽くした。抱き合った時の身体の感触を思い出してしまい、膨らみかけの初菜の胸に視線が吸い寄せられてしまう。それに気付いた初菜も、はずかしさから来る隠したい気持ちと、女性として見て欲しい気持ちがせめぎ合った結果、曖昧なはにかみ笑いを浮かべていた。
数秒の後こほんと咳払いをし、和樹は「良く似合ってるね」と誉めた。聞こえないくらいに小さく、「ありがと」と初菜が呟いた。
波打ち際で水を掛け合ったり、ワカメを拾って相手に投げ合ったり、砂の山を作ったり。一度水に濡れてしまうと、甘くはずかしい雰囲気は綺麗に忘れ、童心に帰って二人は遊んだ。陽光が波に反射してきらりと光る様を楽しみ、押し寄せた波が、微細な砂粒を連れて海へと引いていくのを見守った。
あの夏はもう帰ってこない。肌を刺すような鋭い陽射しを、舌を転がるかき氷の冷たさを、初菜は想像することすら出来なかった。
『八月十二日。海に行きました。かき氷食べたり、手を繋いだり、……キス……したりしました。また、行きたいな』
ブルーハワイもイチゴの甘みも、何となく覚えているのに。
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