第7話 マグロの解体


「魚を持ってきてくれたのか。ありがとな」


 浅瀬に下ろした人魚に向かって、男は微笑んだ。


「……あんたが島から出て行く前に餓死でもされたら、大変だからよ ! 誰が後始末をすると思ってんの ! 特殊清掃を呼ばなきゃならないでしょ ! この島も事故物件になっちゃうし ! 」


 シーラは首がねじ切れるのではないかと心配になるほどの勢いでそっぽを向いた。


「無人島専門の人魚の特殊清掃員がいるのか……」


 男は、1メートル弱ほどの回遊魚を両手で持ち上げる。


「これは……すごいな。黄金色のマグロか…… ? 」


(良かった…… ! 喜んでくれてるみたい ! )


 ほぼ180度回転して後ろを向いた顔で、器用に男の様子を目の端でとらえたシーラは内心歓喜する。


「その……良かったら一緒に食べないか ? 一人じゃ食べきれないし……」


 冷蔵庫など望むべくもない無人島。


 食べきれなかった生魚が翌日まで鮮度を保っている道理はなかった。


「い、いいっしよに…… ! べ、べべべ、別に……いいけど……」


「わかった。ちょっと待っててくれ。今、切ってくるから ! 」


(切ってくる ? 人間の魚の食べ方って私達と違うのかしら ? 一緒に食べるって言うから、頭と尻尾から同時に食べ始めて……真ん中あたりで顔が近づいて……そのまま……キスしちゃう海人族のバカップルがよくやってるアレかと思ったけど……やだ……私ったら……)


 色々と想像して、これ以上ないほど赤面する人魚。


(……どうしよう…… ? またママの教えに違反しちゃったけど……でも……)


 シーラは少しだけ顔を前に戻して、男の背中を見やる。



 男はテーブル代りに使っている四角い岩の上にマグロらしき魚を置いた。


「普通にさばいてたら時間がかかり過ぎるな……マグロ包丁なんてないし……」


 そう呟いた彼の頭の上で、何かが動いた。


 彼の髪の毛に紛れて隠れていた知能を持つアイテムインテリジェンスの付け髭だ。


「ん ? ヒーちゃん、解体できるか ? 」


 まかせて ! というように軽く彼の頭を叩いた付け髭はもぞもぞと定位置である男の口元へと移動する。


(万が一、ヒーちゃんまで没収されたら、本当に手詰まりになるからな……)


 付け髭に名前を付けるという独創的な行いをしながら、「ヒーちゃん」というまるで独創性のない名前しか思いつかなかった男は、解体をまかせて、しばし物思いにふける。


 付け髭からはいくつもの黒い触手が伸びて、それぞれの先端が刃物のような形状をとる。


(シーラの口ぶりからして……岩壁の上のことは知らないようだな……。それにしても……命の恩人であるのは本当だろうけど……今一つ、わからないな……何が目的なんだ ? )


 ちらりと岩壁を見た男の頬を、とても魚臭くなった付け髭の端が叩く。


(……とりあえずヒーちゃんで魚の解体はもうやめよう。口元が信じられないくらい生臭くなっちまう……)


 平らな岩の上には綺麗に部位ごとに切り分けられたマグロの刺身が出来上がっていた。



「またせたな」


 二つのヤシの実の殻を器にして、そこに刺身を山盛りにしたものを男が両手に一つずつ持って運んできた。


 そしてその一つを波打ち際に座るシーラの前に置く。


「……人間ってわざわざ魚をこんな風にして食べるの ? 」


 不思議そうに刺身の山を眺めた人魚は、その天辺の一枚を摘み、口に運ぶ。


 彼女の口が大きく開いた時、その中の鋭角な歯が見えた。


「……美味しい…… ! 」


 ただ身を切り分けただけなのに、海の中で頭からバリバリと骨ごと噛み砕いて食べるのとは段違いの味だ。


 切り分けられた身の滑らかな断面が、心地の良い舌ざわりとなり、油の乗ったうま味が舌の上でとろける。


 水の中で体温を維持しなければならないために燃費が悪く、しかもこの魚を狩るために遠距離を泳いだ腹ペコの彼女にとって、初体験の刺身の美味さは悩を痺れさせた。


「これはすごいな…… ! 醤油とわさびがなくてもこんなに美味いなんて……」


 男も地球には存在しない黄金色のマグロを堪能している。


 気づけばシーラの前の器は空になっていた。


 彼女は恨めしげに空っぽの器を睨む。


 その視線に気づいた男は、山盛りから半分ほど減った器をそっと人魚の前に差し出す。


「俺はもうお腹一杯だから食べてくれ」


 シーラは一瞬、嬉しそうな顔になるが、すぐに無表情になって、それからおずおずと手を伸ばした。


「……ありがと」


 小さな声で、彼女は礼を言う。


「元々、シーラが持ってきてくれた魚だろ ? こちらこそありがとう。こんな美味い魚を食べたのは生まれて初めてだよ」


 多分な──と記憶喪失の男は心の中で付け加えるが、それを口に出すことはしない。


 そして男は立ち上がり、砂浜の方へと歩いて行く。


(どこ行くの ? あんまり勢いよく食べ過ぎて引かれちゃったかな……)


 不安になるシーラだったが、すぐに男は両手に何かを抱えて戻ってきて、ホッとする。


 今度はゆっくりと刺身を一切れずつ摘まむ彼女の近くで、男は昨晩の燃え残りのに着火アイテムで火をつける。


 浜辺はすでに夕闇に浸食されていたが、温かな炎の明かりがそれをわずかに押し返し、二人を照らす。


「火をこんなに近くで見るのは初めてだけど……すごく綺麗で……なんだか落ち着く……」


「海人族はずっと海中にいるから、火を使わないのか。確かにこれくらいの焚火たきびは温かくていいものだけど……気を付けないと色んなものに燃え移って、燃え上がって、人を焼き殺すこともある。SNSで炎上して火だるまになっちまって、助けようと手を差し伸べた人に抱き着いて逆に道連れにする奴もいるし……」


 日が完全に落ちて、ほぼ全裸の身体が少し涼しさを感じ始めた男は火に手をかざし、人魚を見た。


 男の言ったことの後半の意味が全く分からなかったシーラは刺身を食べながら火を眺めている。


 その大きなとび色の瞳に映った炎がちろちろと揺れていた。


(変だ……。おかしい……。ママが言ってたことを破ったのに……。今の方が……)


 シーラは男を見る。


 朝とは違って、穏やかな顔だ。


(そんなはずない…… ! ママはあんなに幸せそうな顔をしてたんだから ! ……でも……)

「なあ、この島には人が住んでいた形跡があるけど……誰かここで生活してたのか ? 」


「え ? ええ、ここは……私のパパが暮らしてた島よ」


「……てことはシーラの父親は……」


「そう、海人族じゃない。……人間よ。他の種族のことは知らないけど、海人族が人間族と結ばれるのは滅多にないことよ」


 炎の灯る双眸そうぼうで、人魚の女は人間の男を見つめた。


 人間族と他の種族のハーフは例外なく茶色の髪、茶色の瞳となる。


「……お父さんとお母さんは今…… ? 」


「パパは……私が産まれる前に死んじゃって……ママは私が五歳の時に……狩りから帰ってこなかったの……」


「そうか……」


「でも……今もはっきりと覚えてるの。人間のパパのことを優しい、幸せそうな顔で語るママのことを。だから……」


 私も──と言いかけてシーラは、ハッとなる。


(何を恥ずかしいこと言おうとしてんのよ……私は…… ! )


「……仲のいい、幸せな夫婦だったんだな……」


 男が静かな声で言って、女は小さく頷いた。


「……今日、岩壁を登ってみたんだけど、上に小さな森があったんだ。そこにある木でいかだでも作れば、この島から出れるかもしれない。なるべく早くやるよ。あまり長い間世話になっても悪いからな」


「そう…………せいぜい気を付けてね。この海域にはたまに鮫が出るから」


 シーラは夜の静かで、それ故に何かが潜んでいそうな海を見て言った。


「人を襲う種類の鮫なんてそうそういないさ。それに人を襲うのもイルカやアザラシと間違えてるからだって聞くからな。大きないかだなら大丈夫だろ」


 地球での話を得意気に、しかも海で暮らす人魚に対してかます男のさまは、「釈迦に説法」という言葉をこれ以上なく体現していた。


 実際、地球では人間が鮫に噛まれても食い殺されることなく助かるケースがある。


 そしてそれは鮫が噛んだ瞬間に本来の餌ではないことに気づくからだ、と説明される。


 だからと言って「間違えちゃった ! ごめんね(>_<)」で済む話ではないのだが。



「さあ……どうかしら。鮫の中にも……あんたみたいな人間が好みだっていう変わり者がいるかもね」


 ちゃぷり、と小さな水音がして、シーラは波打ち際から浅瀬へと入る。


 焚火はいつの間にか燃え尽き、その代わりに月の光が海中に消えていく彼女の濡れた背中を銀色に照らしているのを男は無言で眺めていた。

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