第4話 人魚とその母の教え


 水平線から顔をほんの少しだけ出した太陽が、スマホのアラームよりも優しく、しかし確実に男の意識を覚醒させる。


「……朝か」


 あと五分──と言わんばかりに男は砂浜で寝がえりをうち、太陽に背を向けるが、彼の背を朝日が容赦なく焼いていく。


「暑くて寝てられん……。洞穴の中で二度寝するか……」


 当然ながら自然現象にスヌーズ機能などないことを寝起きの男は傲慢にも恨めしく思いつつ起き上がる。


 そして鞘に納められた剣を背負い、少しばかり焦げたヤシの実ヘルメットをかぶり、それ以外は全裸の男は辺りを見渡して、目的地を少しばかり変更した。


 行先は海と砂浜の境だ。


「……どこかから流れてきたのか ? なんにせよ助かる」


 男は波打ち際に置かれた一つの大きなヤシの実を両手で持ち上げた。


 するとその下に敷かれた顔くらいの大きさの葉っぱ数枚と、両腕を伸ばしたくらいの長さのロープが目に入る。


「こいつは使えそうだ…… ! 」


 男は手の平を大きく広げたような形の鮮やかなグリーンの葉っぱで前を隠し、ロープをベルトのように腰に巻いてそれを固定した。


「隠せることは隠せたが……なんか逆に変態度が上がってる気がする……」


 基本全裸で、股間を大きな葉っぱ一枚で隠し、背中に斜め掛けに剣を装備し、ヤシの実を頭にかぶった男は余った葉っぱを持ち上げた。


「何枚か余ったな……」


(余ってないわよ ! 何で一枚しか使わないのよ !? 全部使えばお尻も横も隠せるのに ! ……でもこれでなんとか近づけそうね…… ! )


 沖から男の様子を観察していた人魚はゆっくりと浅瀬へ向かう。


「……これは、あの落語家の師匠のギャグができそうだな」


 無人島に漂着して、あまりの寂しさに独り言の多くなった男は、またしても独白を始め、大きな葉っぱを顔の前にもってくる。


「いないいない……」


 アランドロン──と顔の前の葉っぱをけた男の目の前に、女の顔があった。


「いるじゃねえか !? 」


 慌てて後ろに退すさり、男は両手に持った葉っぱを二刀流のように構えた。


「……なんでそんなに私のことを警戒してんの ? 」


 むしろ女性全般から警戒される様相ようそうの男に、人魚はあからさまに不快な顔を向ける。


「お前が海の生き物を使って俺を攻撃してきたからだ ! 」


 その言葉とひびの入ったヤシの実ヘルメットが人魚を動揺させるが、彼女はそれをおくびにも出さずに高圧的に接する。


 彼女の母の教えに従って。


「は ? 文句あんの ? あんたが近づきがたい変態的な格好をしてたからでしょ ? まあ今も少しマシになっただけだど……。それにあんたに『お前』なんて言われる筋合いはないわ ! 」


 波打ち際に魚の下半身で器用に座り、腕を組んで人魚は男に反論した。


「うっ……確かに……」


 ひるむ男。


「それから……私はあんたの命の恩人なのよ ! 誰が嵐の海からあんたをここまで運んであげたと思ってんの !? 」


「そ、そうだったのか ! すまない ! 命の恩人に対してさきを向けるなんて…… ! 」


 そう言って男はまるで剣のさきを向けるように構えていた、なんの殺傷能力もない葉っぱを慌てて捨てた。


 そんな男の道化ぶりを見ても、人魚はぴくりとも笑わない。


「改めて礼を言うよ。ありがとう。助かったよ…… ! 良かったら名前を教えてくれないか ? 」


 男は深々と頭を下げて、それから座る人魚と同じ目線になるように腰をかがめた。


「……人に名を聞くなら、まず自分から名のったらどう ? 」


 フン、と擬音が聞こえるほどにそっぽを向く人魚。


「……すまない。もっともなんだが……どうも記憶喪失になっちまったみたいで……何も覚えてないんだ……自分の名前も……」


 男は情けなさそうに片手で頭をかく。


「何情けない顔してんのよ ! 私が悪いみたいじゃない ! ……しょうがないから私があんたの名前を考えてあげるわ。……『フイッシュイーター』なんてどう ? 」


「……響きはカッコいいけど、ただの魚料理が好きな人じゃないか !? 」


「気に入らないって言うの !? じゃあ……『ストリングマン』は ? 」


「ストリングはヒモ……。マンは男……ヒモ男ってことだろ !? 誰がヒモ男だ !? 」


「文句あんの ? この島は私の縄張りだし、あんたが食べた魚や貝は私が用意してあげたんだけど ? それってほとんどヒモ状態だと思わない ? 」


「ぐっ……」


 男は押し黙る。


 しかしそれは言い返せないからではなかった。


(……なんだ ? 似たようなやり取りをしたことがあるような……)


「……ジョン」


「え ? 」


 男は現実に意識を戻す。


「聞いてんの !? 『ストリングマン』が嫌なら『ジョン』でどう !? 」


 そこには輪をかけて不機嫌そうな人魚の顔。


「あ、ああそれでいいよ。とりあえず俺はジョンってことにしておこう」


「……ジョン、私はシーラよ」


「そうか……よろしくな。シーラ」


 そう言って握手のために差し出した男の手を一瞥いちべつだけして、シーラは話し続ける。


「で、あんたはこれからどうするの ? ジョン」


「……しばらくこの島に住ませてくれ。陸地に向かう船が通りかかるまでか……。何か海を渡る方法が見つかるまで……」


「……こういう時、人間族は『ください』って言うんじゃないの ? 」


「……そうだな。この島に住ませてください……。お願いします……」


 男は膝をついて、頭を下げた。


「……少しの間なら別にいいけど、私の言うことには従ってもらうからね」


 ポイっと男の前に何かが投げられた。


 おそらく大きな貝殻から削り出したであろう小さな白い刃物だ。


「まずはその冗談みたいな髭を剃ってもらおうかしら。素顔を見せない人間なんて信用できないもの」


 そう言われて、男は思わず自らの顔を覆う黒髭に手を伸ばす。


 目の下から顎の先まで、まるでマスクのように男の顔を隠している。


(ん…… ? この髭……)


「わかったよ」


 くるりと回転して人魚に背を向け、胡坐あぐらをかいて、男は白いナイフで髭を剃る。


 その間、人魚は男の背中をじっくりと眺めていた。


「……終わったぞ」


 男がゆっくりと振り向く。


 まるでマンガの過剰な表現がそのまま現実化したような髭は、綺麗になくなっていた。


 人魚は一層険しい顔になって、男を睨みつける。


「……すっきりして少しはマシな顔になったじゃない。あとその背中の剣は預かるわ。変な気を起こさないようにね」


 シーラの差し出した手をに対して、男は初めて動揺の顔を見せた。


「それは困る…… ! これは俺が記憶を失う前から持っていたものだ。記憶を取り戻す鍵になるかもしれない ! それに……ヤシの実を割るのにも必要だ」


 男は足元の固い固いヤシの実に視線をやる。


「……預かるだけよ。あんたが島を出て行く時にちゃんと返してあげるわ」


 それから──とシーラはヤシの実に向かって無造作に手を振った。


 それだけで音も立てずにヤシの実は真っ二つになる。


 それを見た男は若干青い顔で剣を差し出した。


「これで食べられるでしょ ? ……剣の代わりにそのナイフを貸してあげるわ。じゃあ私はもう行くから。なるべく早く島から出て行ってね」


 そう言い残して、人魚は海へと消えていった。


 男は大きく息を吐きながら、後ろに倒れ込む。


「……なんなんだあの態度の悪い女は…… ! 」


 しばし天を仰いでから、男は手の中にあるものを確認する。


 そこには両端が跳ね上がった八の字型の立派なカイゼル髭があった。


 そしてその髭の見えないほど細い一本が、海中へと伸びている。


「まさか髭が付け髭で、アイテムだったとはな……」


 大量の魔素を通して再起動させた時、自動的に簡易的なマニュアルが骨伝導で装着者にだけ聞こえるアナウンスとして流れるように設定されていたが幸いした。


 顔の下半分、全てを覆うほどだった髭は、今は手の平におさまる小さな付け髭へと形態を変化させている。


 男はこれからすべきことを考えだしたが、早々と放棄して、割られたヤシの実に手を伸ばした。




 燦燦と輝く太陽も薄明かりにしかならない海の底。


 シーラは自分の住処である海中洞窟に先ほど男から取り上げた剣を大事に仕舞いこみ、改めて魚を狩るために海中へと踊り出る。


「……剣を取り上げたのはちょっと可哀そうだったかな……。でもママが『大きな刃物を取り上げて危険な抵抗心を奪わなきゃダメ』って言ってたし……。『大事なものを預かって無謀にも島から海に出ていくのを防がなきゃ』とも言ってたから……」


 シーラは、どちらも運命の人を守るために大事なこと、と優しそうに微笑む母親の顔を思い浮かべる。


 変に高圧的な態度もそうだった。


 早く出て行け、と言われて、どうやっても出て行けないことに気づいた男はより優しく従順に接してくれるようになる、という母の教え。


「それにしても……髭を剃ったら、すごく素敵だった…… ! 」


 彼女は自然と締まりのない顔になる。


 男の前では我慢して、けして見せなかった顔だ。


 そのせいでより険悪な表情になってしまっていたことを彼女は気づいてもいないし、後悔してもいない。


「随分とご機嫌ね」


「ひゃっ ! 」


 突然、声、いや思念波で話しかけられたシーラはおかしな悲鳴をあげてしまう。


 海人族は海中では声ではなく、思念波で会話するのだ。


 その発声源に目をやると、同じ海人族のリュースがいた。


 岩場に豊満な上半身とタコの下半身でどっしりと鎮座している。


「びっくりさせないでよ…… ! 」


「私はずっとここにいたのに、シーラが浮かれて上の空で気づかなかったからさ。一体どうした ? ついに運命の相手が流れてきたかい ? 」


 赤い髪のリュースは丸い顔で可笑しそうに笑う。


 愛嬌のある表情だ。


「そうよ ! だから今から彼のために魚を捕まえにいくの ! 」


 はにかんで笑い、シーラはさらに沖へと泳ぎ去って行った。


 不安げにその後ろ姿を見つめるリュース。


「……この前の嵐で人間の男でも遭難してきたかね。あの子の母親とジョン達みたいにならなきゃいいが……」


 海中で吐いた彼女の溜息は、小さな泡となってゆっくりと明るい海中へと浮かんで行った。


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