第20話 彼女は最後に振り返り、向日葵のように微笑んだ

見舞いを終えた俺達は、病室を出て廊下を歩いていた。途中、壁に掛かっていた時計が目に入り、今が夕暮れ時だということがわかった。……このまま帰宅するかと思ったが、彼女はふと足を止め、俺の方を向き直り口を開く。


「……榎並くん。まだ少し、いいでしょうか」


「……ん?ああ、いいぞ」


「ありがとうございます。……ちょっと風に当たりたい気分ですから、屋上に行きたいんです」


「そうか」


すぐに彼女が、俺に何かを伝えたいのだと理解した。ただそれ以上は詮索せず、彼女の望みを承諾し再び歩み始める。……辺りはノイズが掻き消えたかのように静かになり、気づけば俺達の足音だけが響いていた。


窓から見える夕暮れを見据え、目を細める。反射した陽の光が床を照らし、俺達の影を鮮明に生み出していた。彼女はその間、何も口にはしなかったため、やはり沈黙が病院内を支配することになる。コッコッと、小さなスニーカーの靴音だけが耳元まで跳ねていた。


やがて最上階から屋上に出ると、暖かな風が優しく肌に触れた。黄金と橙が絡み合うような彩りが、街のすべてを抱きしめていた───。


「……なにか、話があるんだろ?」


俺が静かに切り出すと、彼女は俺の数歩前まで歩み出ると立ち止まり、ふわりとその長髪を風に踊らせる。


「……はい。聞いていただけますか?」


「……ああ」


振り返り、彼女は半分の微笑みと半分の哀しみを持ち合わせた表情をこちらに向ける。その丸い瞳はただ街並みを忠実に映し、その中心に俺を置いていた。


「私は昔から体が弱くて、その度に自分に自信が持てずに、いつも後ろ向きな性格だったんです。お父さんも、私が小さい頃に病気で亡くなって、お母さんはその頃から体調や心が崩れ始めていって───私にできることなんかなにもないんだって、どんどん自分が嫌いになっていきました」


「……」


「体調の悪化から、受験のときも一年遅れになってしまって……でも周りの友達はみんなが必死で……なんだか自分が、本当に弱い人間に思えてきて───辛かったときも、ありました」


口にしている内に、彼女は俯いていた。しかし、すぐにそれを正すと前を向き、俺の双眸を見据え始める。


「そうして入学したのは───皆さんの待っていた男子校でした。最初の頃は、心臓が痛いくらいに跳ね上がって、ますます自信が無くなって……上手くやっていけるだなんて勇気も、皆さんと打ち解けられるだなんて希望も、全然持ててなんかいなかったです」


しかしそれでも、その目線は落ちない。彼女が紡ぎ続ける言葉を、俺はただ耳にしていた。


「でも……それじゃダメだって、そう思いました。なにがなんでも皆さんと打ち解け合って、仲良くなりたい!───そう決心して、頑張って、明るい性格の私に変わろうとしたんです」


「だから、いつも笑って振る舞ってたのか」


「……はい。暗くて卑屈な自分から離脱して、次の私で心機一転しようって……そう決めたんです」


そうして静かな、風が吹く。それは俺にも彼女にも、平等に与えられた。



「───私……皆さんのことが、好きです。すごく、とっても、たくさん、いっぱい……大好きになれました。こんな私を受け入れて、大声で名前を呼んでもらえて、大勢で笑ってくれて、精一杯賑やかにしてくれて───その全部が、過ぎていく時間の何もかもが、私の中の宝物に……なりましたっ」


「桐崎、」


いつの間にか、彼女はその瞳から、透明に輝く涙を零していた。俺はその煌めきに釘付けになると、いつまでも彼女から目を逸らせずにいる。


彼女はこの学校に来て……変われた。それは彼らの賑やかさであり、陽気さであり、振る舞いであり、笑い声がそうしたのだ。


何も自信が持てずにいた桐崎 花を、その根本にある弱々しい茎を、根強くし、照らし、育む。そんな時間の中で彼女は、やっと掴むことができたのだろう。


───彼女の追い求めた、青春を。


「茅野くんにも再会できて、彼の想いを知ることができたとき、私はとても嬉しかったんです。……ここまで私を考えてくれる人がいるんだって、嬉しくて嬉しくて、それだけで充分すぎるほど幸せでした。───そして、榎並くんと藤枝くんのことも、深く知れて、良かったと思っています」


「───」


「だから榎並くん……どうか榎並くんも、私と同じように───これからも前を向いて、過去と割り切って、精一杯生きてください。それを私は今日、どうしても伝えたかったんです」


暗がりしかなかった中学時代。それを彼女に打ち明けて、彼女が思ったことは───俺と藤枝に、前を向いてほしいという願いだった。……やはり彼女は、どこまでも他人のことを考えられる人間だったのだ。


そんなことを第一に考えるような彼女を、俺は尊敬する。そして同時に、力強く頷いてみせた。


「安心してくれ。……桐崎と、あの騒がしい日常のおかげで───今ようやく、俺も前を向けてる最中だからさ」


「それなら、良かった……」


ほっとしたように、彼女は夕陽を背に安堵する。


彼女が来てから今日まで……本当に楽しかった。毎日が祭りで、毎日が男女間の緊張の連続で……そして毎日が、青春だった。



「……ありがとな、桐崎」



───俺は最後に、彼女に向けて感謝した。

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