第4話 在りし日の残骸

───どこからか、上擦った息切れをする音が聞こえてくる。それは最初、誰かの何かを訴える、感情の破裂かと思った。痛みで何もかもが壊れてしまうのではないかと錯覚するくらいに、その声の主は苦しみ喘ぎ、藻掻いている。……とてもじゃないが、聞くに堪えないものだった。


「───はぁ、はぁ、はぁ!っ、はぁ、はぁ……!」


嘆きの途切れ声が耳を劈く。───痛い。まるでそれは、自分の耳元に向かって直に発せられているかのようだ。そして……やがて気がつく。



それが、自分の声だということに───。



「……やめろ。それ以上は、」


口元から出てくるのは、そんな、誰にも聞こえないくらいの小さな声。自分にしか届かないほどの、他人には決して通用しない声。


「やめろよ……なぁ。いつまで続ける気だよ……?誰か、誰でもいいから、止めろよ」


少しだけ拳を握りしめると、視界がぐわっと震えた気がした。全身からはどうしようもないくらいの熱が浮かび上がり、やがて神経はそれに伴いぎしぎしと音を立て始める。


「───っ、あ」


理解できなかった。何もかもが、有象無象のすべてが、やっていることが、行っている行為が、痛みを感じないような人間性が、悪意に塗れた悪行が、哀しみを理解できない最低さが、それらの全部が、理解できなかった。


「───」


そして、動き出す。拳を固めて、その一歩を踏み出す。思考の先にあるものに、手を伸ばして掴みかかる。



その後のことは、よく覚えていない。




2

翌日。朝の全校集会のため、全学年の生徒が体育館に集まるために廊下を歩く。六月に入った途端、汗ばむような気温が流れるようになり、男子校の空気と相まってさらに暑い。


「しっかし、昨日は酷い目に合ったよ……。リアルに三途の川がクリアに視えたね」


体育館に向かう途中、俺の横を歩く藤枝がそんなことを呟く。そういえば、とその顔を覗くと、額には痣やらができておりやけに痛々しい。


「なんだよ、また寮でなんかしたのか?宮原さんにぶっ飛ばされたとか?」


「それよりレベルが高いことをされたかもね……。なんせアメフト部の連中にミンチにされたんだからさ」


「……は?お前喧嘩売る相手間違えすぎてね?」


「そりゃしたくてしてるわけじゃないよ!あれはいくらなんでも理不尽すぎるってば!」


と、そこまでを言い切った藤枝に向かって、

ギロ、と前方から鋭い視線が投げつけられる。噂をすればなんとやら、うちのクラスのアメフト部達だ。


「ひぃ!す、すみません!」


立ち幅跳びの選手のように飛び跳ねる藤枝。どうやら昨日の件がよほど響いているらしい。……というか、これって俺も睨まれてる?


「なあ、気のせいかもしれんけど、俺も対象なのか?」


「気のせいだったらよかったよね。お前も同罪だよ……」


「はぁ……?身に覚えが───」


あった。


「もしかしてアレか?俺とお前で、桐崎とクレープ食べにいったから?」


「大正解。聞いた話だと、アメフト部の一人が偶然見かけたらしいよ」


「嫉妬かよ……。まあ、気持ちはわかるけどさ」


当の桐崎はというと、今朝も元気に登校してきた。初日の昨日よりも、なんだか明るく自然体のようだった。……あの調子を見る限り、どうやら緊張の糸もだいぶ解けたらしい。それについては本当に安心する。が、問題はどうも、別のところにできたらしい。


「もういっそのことさ、クラスメイト全員で桐崎と行動すればいいんじゃないかな……。そうすれば、変ないざこざもなくなるだろうし」


ため息混じりにそう言う藤枝であったが、それはそれで地獄絵図に等しい。なんせうちのクラスは男子三十人で、それに対して女子は桐崎一人だけなのだ。参勤交代の男の群れに、一人だけ紛れ込んだ姫君のごとく異質な世界観───通行人の目が予想できてしまう。


「世間的な目のいざこざが起きるから却下だな。それに、そんなことしても取り合いになってどうせまた争うだろ」


「それもそうだな……。結局、男の性ってやつだよな」


まったくだ。人は欲求には逆らえない。


と、そうこうしているうちに体育館に到着する。そこから上履きを履き替えて中に入ると、予想通りむせ返るような暑さがぶわっと肌を焼き付け、汗ばんでしまうくらいだ。


「あっつー……。早く終わんないかなー」


隣の藤枝がボヤくが、まったくもって同意だ。こんな場所にいつまでも立ちっぱなしになっていたら、死人が出るレベル。さっさと終わって教室に帰りたい。


「ん……?」


と、そこで周囲がやけに騒がしいことに気がついた。それは正面で行われている喧騒で、嫌でもここから目に入る。


「なんの騒ぎ?」


藤枝が確認しようとぴょんぴょんと跳ぶが、すぐにその騒ぎの原因、正体に気がついた。


───男子生徒が囲んでいるのは、紛うことなき桐崎の姿であった。なるほど、と理解する。彼女が転入してきたのはつい昨日のことであり、無論学校の生徒が全員知っていることではない。うちのクラスの連中経由で聞いた奴がいたとしても、それでもまだ大勢の生徒にとっては初耳の情報なのだ。


「すっげー!実物女子じゃん!」


「後でうちのクラスにも来てよ!」


「か、彼氏は?彼氏っていたりする!?」


───やれやれ。まるで昨日のうちのクラスのような反応をしてくれる。まあ、それは当然といえば当然なのだが。


「あ、あの……えっと、その───」


当の桐崎はその雄の群れに飲み込まれ、すっかり神格化状態だ。そしてそこに密集する生徒の数は、昨日のうちのクラスメイトの規模を軽々と超えている。……上手く喋れないのも、無理はない。


「はい、そこまでー。ここはアイドルのライブ会場でもなけりゃ、宗教団体の集まる礼拝堂でもねーぞ」


パンパン、と近場の男子生徒の頭を丸めたノートで軽く叩いていく木内。するとすぐにその密集度は減っていき、やがて騒ぎも鎮火する。


「あ、ありがとうございます……木内先生」


「お前も大変だな。……ま、適当にあしらってやってくれよ」


ふわぁ、とあくびをしながら向こうへと戻る木内に、深々とお辞儀をする桐崎。……なるほど、たしかにこれは苦労する。彼女の体力面的に心配だ。


「花ちゃん、木内先生の前には、まず俺を頼ってもらってもいいからねー!」


軽快なステップでそう呼びかける藤枝。すると彼女は微笑みながら頷いた。


「はい、ありがとうございます、藤枝くん。……でも、こういう賑やかな雰囲気は大好きです」


「そうか。まあ、加減さえ計れてるならそれでもいいかもな」


俺は体育館に集まる他の男子生徒達を見渡してから、そう呟く。おそらくこのお祭り騒ぎは、今後も続いていくのだろう。まあせいぜい、桐崎が倒れない程度に騒いでくれるなら、それはそれで悪くない日々なのかもしれない。


「あっ、そろそろ並ばないと!じゃあね、花ちゃん、榎並!」


「はい、また後で」


応答する桐崎にピースしながら、藤枝は出席番号順の自分の配置に向かった。


見送る彼女は手を振っていたが、今度は別の方向からやって来るその人影に目を見張り始める。俺も同じ方に顔を向けると、そこにはクラスの委員長───白川が立っていた。


「大変でしたね、桐崎さん。お気の毒です」


「あ……白川くん、でしたっけ?はい、でも、もう大丈夫ですよ」


にこやかに微笑む彼女を一瞥し、彼は遠目になって目を細める。


「おかげで男子寮も賑やかになってくれましたよ。これからもきっと、良い雰囲気の日常が続いていくのでしょう。……それもこれも、すべてあなたのおかげです」


「い、いえ……そんな、」


「口説き落とすのもほどほどにな、委員長。桐崎もまだ、ここのペースを完璧には掴めてないんだからさ」


俺が笑いながら指摘すると、白川は「ですね」と苦笑した。彼は委員長としても落ち着きがあり、気品があり、なにより穏やかな青年である。彼がクラスのまとめ役でよかったと、今ほど思うことはない。


「……しかし、」


と、そこで何かを思うような顔つきになり、白川は桐崎をじっと見つめて様子を伺っていた。


「な、なんですか?」


「───。いえ、」


歯切れが悪く、彼は目を逸らす。その様子は傍から見ても不自然で、何かが引っかかる表情であった。


ただ、最後に一言───彼は眼鏡の位置を直しながら背中を向けて、口を開く。



「───君が、あの日の君だとしたなら、僕はどうすればいいのか……迷うのです」



───そうして彼は、列の人混みの中に消えていった。意味深な言葉の羅列だけが、桐崎と俺の間をうねる。きっとその言葉の意味など、言われた桐崎にすらわからなかったであろう。


───彼女の表情が、それを物語っていたから。

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