第3話 治療
レムスは、自分の懐から、携帯用の魔存器をとりだし、封印したものをそのままその中に入れた。
彼も衝撃で水をかぶっており、二人ともびしょ濡れだ。
濡れると思ってはいたけれど、全身濡れるのは想定外のことだ。
「研究室に着替えはあるけど、参ったわね」
「……」
肌にべったりとシャツが張り付く。寒い季節ではないとはいえ、このままでは風邪をひく。めくったズボンのすそは、既に何の意味もない。
立ち上がろうとすると、思った以上に足が痛んだ。
私は、水から上がると噴水の縁に腰を下ろす。
レムスの視線を感じたが、まずは、怪我の確認だ。
裾を元に戻しながらゆっくりと足首を観察する。外傷はなさそうだし、折れたりはしていないようだ。歩けなくはない。
「……どうした?」
いぶかしげなレムスの声。
「ケガをしたのか?」
「ん、ちょっと、ひねっちゃったみたい。でも平気だから」
慌てて立ち上がろうとしたが、レムスに止められた。
「本当か?」
レムスは膝をつき、ゆっくりと私の足に手をのばした。
「--ッ」
少し触れられただけなのに、痛みが走る。思わず出たうめき声に、レムスは目を吊り上げた。
「全然平気じゃないじゃないか? 強がるのもいい加減にしろ」
「強がっているわけじゃないんだけど……」
レムスは私の鞄を拾い上げ、魔存器を中に入れた。
そして、私の方を見て、慌てて顔をそらせ、鞄を突き出した。
「隠せ」
意味が分からずに、私はキョトンとする。
「胸を隠せと言っている。シャツ、透けてるから」
「へ?」
言われて、自分の胸元に目をやると、水濡れしたシャツは、ぺったりと肌に張り付いていて、下着がくっきりとわかる。胸のふくらみも、腰のラインもまるわかりだ。
困ったようなレムスの視線の意味を理解して、慌てて鞄を引き寄せて胸元を隠した。顔が熱い。
「手当もしないといけないが、先に着替えないとまずいな。というか、人に見せたくない」
それは、レムスのセリフではなく、私のセリフだ。
もちろん、レムスの服も肌に張り付いていて、意外と筋肉質だ。そのことに気が付いて、私は居心地の悪さを感じてしまう。
意識したくないのに。
急にレムスの手が伸びてきて、私の身体に触れる。
「え? ちょ、ちょっと」
「その足で歩くのは無理だろう?」
ふわり、と、体が宙に浮く。
ほんの少し、声が怒っている。見上げたレムスの顔は、ややしかめっ面だ。
「あの……でも、重いし」
お姫様抱っこ状態である。非常にまずい。顔が近い。
胸がドキドキするし、お互いに濡れているから余計に体温を感じてしまう。
「重くない。いくら魔術師でも、俺はそんなに軟弱ではない」
「えっと。でも、歩けるから……」
この状況で、至近距離で見つめられると、どうしたらよいかわからない。体中の血が脈打って、息が苦しい。
「……たまには格好つけさせろ」
ぽつりと呟く、その言葉に驚いて見上げると、びっくりするほどの優しい瞳にぶつかった。
心臓が破裂しそうだ。
「何……言っているのよ」
声がかすれる。
「変な噂になっても、知らないわよ」
「それもありだな」
そう聞こえたのは、気のせいだろうか。
私はレムスの温かい胸に顔をうずめる。
抱き上げる彼の腕に力がさらにこもったように感じた。
自室に戻り、服を着替える。
本当は風呂に入りたいところだが、さすがに職場に風呂はない。
濡れた髪の毛を拭いていると、レムスが軍医のラムダスを伴ってやってきた。
ラムダスは、四十半ば。少しだけ髪に白いものが混じっているが、医者とは思えない頑強な体つきをしている。もちろん、いざとなったら戦場についていかなければならない職務だというのもあるのだろう。そこいらの雑兵なら素手で殴り倒してしまえるくらいの太い腕をしている。
彼は、兵舎の医務局に務めている。この職場に一番近い位置にいる医者であるし、このような怪我が専門なのは間違いない。
しかし、いくらなんでも、軍医さまに、部屋まで来てもらうほどのケガではないと思う。私は軍人ではなく、ここは軍の管轄外だ。そもそも医者を呼ぶなんて、レムスが大げさすぎるのだ。なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「いやいや、捻挫を馬鹿にしちゃならんぞ」
ラムダスは私をたしなめながら、足に冷たい膏薬を塗る。ひんやりとした感触が、いかにも効きそうな気がした。
「今回は、本当にひねっただけみたいだが、無理をするとろくなことがないぞ」
「無理はしてないです」
「そうかな? ジェシカちゃんはいつも無理をしているぞ?」
ラムダスはクスッと笑い、傍らに立っているレムスを見上げる。
まるで同意を求めたかのような問いかけに、レムスは戸惑ったようなしぐさを見せた。
「私、本当に無理はしていないです」
「そうか? それならいいが、少なくとも十日ほどは安静にしていなさい。室長には、私が話しておいてあげよう」
白い布を足に張り付け、ラムダスは包帯でぐるぐるとそれを固定する。
かなり、大げさだと思う……けど、わざわざこんなところまで来ていただいたのだから、これくらいしてもらわないと、周りにかえって示しがつかないかも。
ありがたいと思っておこう。
「そもそもジェシカちゃんは働きすぎだ。休みの日でも、職場に来ているって聞いているぞ」
「……いつもじゃないです」
どこで、そんな話を聞いたのだろう。
そんなデマ……と言えないのが、哀しい。
研究をしていると、毎日観察しなければならないことなんかもあるから、仕事をするわけじゃないけど、職場に来ることがあったりは、する。それも高確率で。
基本、仕事以外、趣味がないからしょうがない。
「熱心なのはいいが、仕事以外の人生も大事にしないと」
「わかってます」
「ジェシカちゃん、若さは二度と帰ってこないよ。恋もしないと」
「……そうですね」
頷きながらも、苦笑する。もはや、ちゃん呼びされる年ではない、と思う。
私は、婚期をとうに過ぎている。貴族には違いないが、家格的には、それほど高くはない。私の地位は、私の実力で勝ち取ったもので、その評価はあってしかるべきだとは思うけど、政略結婚の相手としては、あまり魅力的ではないのだ。
長年の片思いは、実らない。
きっと室長の縁談が、最後のチャンスになるのかな、と思う。
「何にせよ、お大事に」
ラムダスは、包帯を巻き終わると、笑みを浮かべた。
「あとで、薬を医務局の方から届けさせるよ。とにかく、安静にね、ああ、そのままでいいから」
腰を浮かせかけた私を制して、ラムダスは立ち上がる。
「お世話になりました」
レムスがラムダスの鞄を持って、扉へと案内をした。
「じゃあ、俺、先生を送っていくから」
「ありがとう」
二人が出ていくのを見送って、ゆっくりと立ち上がる。
湿布が効いているのだろう。室内で移動するくらいは、それほど苦ではない。
私は、書棚の魔光蟲について書かれた本を取り出した。
魔光蟲は、魔の森と呼ばれるレーゲナスの森付近に生息している。魔法の源ともいえるエーテルをエネルギー源とし、わずかに発光する。
森に行けば珍しくもない生物だから、特に注目もされていない。
とはいえ、今回見たあの大きさは、破格だ。
しかも、あのような短時間で、膨れるように大きくなって、破裂するなんて、聞いたことがない。
幸いにも封印が間に合ったからよかったものの、あのまま弾けていたら、大惨事になっていたかもしれないほどの、エネルギーを秘めていた。
あれが、特別な個体なのか、それとも、ああいう生き物なのか。
そして、なぜ、あれが中庭にいたのだろう。
誰かが持ってきたのか、それとも、森から飛んできたのか。
一度、レーゲナスの森に行ってみるといいかもしれない。季節的には、魔光蟲がよく観察できる。魔物の数が多いから、あまり推奨はされない時期ではあるけど。
公務としては行けないだろうから、休暇を申請してみよう……と、思いかけて。
「しばらく安静、だった」
思わず肩をすくめる。
そもそも、室長に縁談をお願いした以上、魔の森にふらふら出かけたりすることを考える前に、まず、ドレスの一枚もつくるべきだ。
「ドレスを着たところで、中身が変わるわけじゃないんだけどね……」
こんなふうだから、レムスは、私を親友としか思えないのだろう。
足に巻かれた包帯が、そう指摘しているようで、私は大きく息をついた。
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