見知らぬ世界へ

 朱莉が気づいたとき、彼女は見知らぬ土地にいた。


 少し前、おばあさんが置いて行ったロゼットに触れたことだけは覚えている。


 写真でしか見たことのない西洋建築風の建物群に囲まれて、朱莉は困惑していた。


 あたりの建物の窓からは、明かりがあやしげに揺らめく。


 開け放された窓から、にぎやかな笑い声が響いてくる。


 道行く人々を不審者にならない程度に、朱莉は注意深く観察した。


 そしてやはり、明らかに自分の暮らしている世界ではないと、彼女は実感する。


 そっと傍らの路地裏に体を滑り込ませると、壁にもたれかかった。


 なぜか図書館に持ち込んでいた鞄も一緒にこの世界に持ち込めた様子だ。


 朱莉は、鞄の中身を確認する。図書館の机に広げていたはずのルーズリーフの束。


 それらもすべて、鞄の中に納まっていた。


 朱莉はほっとため息を一つついて、鞄を胸に抱いてずるずると、しゃがみこむ。


 夕飯までには帰るつもりだったのだ、食料などは入っていない。


 朱莉は完全に床に座り込むと、両足を投げ出し、空を見上げた。


 満点の星空である。それを見て、彼女は自嘲めいた笑いをもらす。


 この路地裏で野垂れ死ぬのが先か、誰かに見つかるのが先か。


 どちらにせよ、見知らぬこの世界で生き延びる術を、自分は持っていない。


 そう、朱莉は自分で理解できていた。


 朱莉は、何気なくルーズリーフの束を広げる。


 物語になりえなかった言葉たちを見つめて、朱莉はふうっとため息をつく。


「もう一度……、物語を作りたかったなぁ」


 朱莉が呟いたのとほぼ同時に、鞄に見覚えのあるものが飛び込んできた。


 おばあさんが置いて行った、ロゼットだ。


 ロゼットは淡く様々な色に輝き、その色を言葉で表現するのは難しい。


 レースや滑らかな生地が幾重にも重ねられている。


 そのロゼットが、ひと際強い光を放ったかと思うと、急に首が重くなった。


 首元に目をやると、自分の首からネックレスが下がっていることに気付く。


 本を象ったペンダントトップの個性的なネックレスは、彼女の心をくすぐった。


「こんなネックレス、持ってないんだけどな」


 朱莉が首をひねりながらペンダントトップをいじっていると、声が降ってきた。


「……こんなところで、何をしている?」


 ひどく冷たい声だった。朱莉は慌てて声の主を見上げる。


 声の主はフード付きのマントのようなものをかぶっていた。


 表情はよくわからない。顔が見えないだけで、今の朱莉には恐怖に感じられた。


 ただ一つだけわかるのは、先ほどの声から、青年であることだけだった。


 朱莉は警戒して先ほど以上に強く、鞄を胸に抱きしめて青年を見上げる。


 青年は鞄と朱莉を見下ろしていたが、はっと息をのんだように思われた。


 彼は、すっと屈むと朱莉のロゼットの方に顔を寄せる。


「……これは……。いったい、どこで……」


 まるで信じられないものを見るような口調で、彼は呟く。


 それから、朱莉の方を再び見る。


「……もしかして、これは……、誰かから……預けられたものだったりするか?」


 どこか尋ねることをためらっているような、そんな口ぶりだった。


 青年の問いに、朱莉は初対面のこの人物に、本当の話をするか迷う。


 もし、このロゼットが何か重要なものだとしたら?


 おばあさんが例えば、命をかけて守ってくれた大事なものだとしたら?


 だとしたら、初対面の人間に、ほいほいと話すわけにはいかない。


 朱莉は何も答えず、きっと青年を見上げた。


 屈んでいるとはいえ、彼の顔の方が上にある。


 何もかも見透かしてしまいそうな鋭い瞳だけが、フードから覗いていた。


 二人はしばらくの間、見つめ合ったまま、動かなかった。


 根負けしたように視線を外したのは、意外にも青年の方だった。


 彼はすっと立ち上がって朱莉に背を向けると、小さくため息をつく。


「……なるほど。あの人が預けたのなら、納得がいく」


 青年は独り言のように言う。


 青年は朱莉に背を向けたまま、腕組みをして何やら考え込んでいた。


 二人の間に重苦しい空気が流れる。


 朱莉もまた、どうするべきか考えていた。


 青年がこちらに背を向けている間に、ここを離れるべきだろうか。


 彼女がどうするべきか決めかねていた、その時。


 青年が小さく息づいて、ゆっくりと朱莉の方を振り返った。


「……このまま、ずっとここに居座るつもりか」


 青年の問いに、朱莉は考える。


「さすがに、このままここにいてもどうにもならない……ですよね」


 初対面の人間に、こんなことを尋ねてどうなるのかと思いつつ、彼女は聞く。


「……先のことは、預言者ではないので知らないが。おそらく、そうなるだろうな」


 青年は言葉を選びながら、ゆっくりと答えた。


 ただ知らないとだけ返されると思っていた彼女は、少しだけ安心する。


 青年は、また一瞬迷うように黙ってうつむき、ゆっくりと言った。


「アンタ次第だが……こちらを信用するのなら、状況は少し変わるかもしれない」


「それってどういう……」


 朱莉が不思議そうに、青年を見上げる。青年は、顔をそむけると言った。


「……とりあえず、拠点が必要だろう。用立ててやる」


「え……?」


 朱莉がきょとんとしていると、青年は、マントを翻して路地裏の出口まで歩く。


 そしてそこで肩ごしに振り返ると、めんどくさそうに再び朱莉に声をかける。


「……来るのか、来ないのか? こちらも暇ではないので、早めに決断を頼む」


 朱莉は、鞄に視線を落とす。この青年について行って、大丈夫なのだろうか。


 しかし、今の彼女には他に行く当てはない。それに。


 もし彼が悪者だとするのなら、今まっても後で捕まっても同じことだ。


 ここにいても、八方塞がりだ。とりあえず、進んでみよう。


 そう決めて、朱莉は立ち上がった。


 そして、青年の待つ路地裏の出口へと駆けて行ったのだった。







 





 

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