54|スズエ婦人の手紙

 アレクとスズエ婦人の関係は、単純明快にカテゴライズ(分類)されるような関係ではなかった。

 時には母子のようでもあり、時には恋人同士のようでもあり、時には友人同士のようでもあり、その時々で見る者の印象を変えるのだ。


 どちらにしたところで、ふたりの関係は〈聖域〉の中にあり、誰もそこに立ち入ることはできなかった。アレクにとって、彼女は、かけがえのない存在だったのだ。


 だが――

 アレクは、シーサイド・パレスホテルでスズエ婦人と出会ってから、いままでの間に、一度だけ、彼女のまえから姿を消したことがある。

 

 出会った日から、1ヵ月が過ぎたころの話だ。


 ある朝、スズエ婦人が109号室のドアをあけると、廊下に衣類が散乱し、ちょっとした小山こやまができていた。

 どれも高級ブランドの服ばかりだ。服に混ざって靴やカバン、アクセサリーなども散乱している。


 そのうずたかく積まれた衣類のうえにメモ用紙がおいてあり、そこに、お世辞にも美しいとはいえない、乱雑な、落書きのような文字が躍っていた。


――あんたにもらったものは、すべて返す。

  これでりなしだ。

  俺はこのまま旅にでる。達者でな、スーザン。 アレク――


「こ、これは、いったい何ですか…!?」


 廊下を通りかかったホテルマンが、驚いてスズエ婦人に声をかけた。

 スズエ婦人は、嬉しそうにほほえみながら、こう答えた。


「これは、ね…彼が自分の中の罪悪感と戦って、ようやく出したよ」

「はぁ?」


 スズエ婦人はアレクと出会ったとき、すでに彼の魂胆を見抜いていた。彼は明らかに彼女を利用しようと近づいてきたのだ。

 

 アレクは恋愛詐欺師と呼べるほど、それを生業なりわいにしていたわけではなかったが、生活に困るとセレブな女性を手なずけては金品をねだり、頃合いをみては姿を消す――空気を吸うように嘘をつき、人をだまし、生活費を稼ぐ。


 それは、容姿にめぐまれた彼が、幼い頃から自然と身につけてきた生きるためのスキルだった。

 スズエ婦人は、そのことを百も承知で、アレクが「欲しい」という物をすべて買い与えた。


 彼女には見えていたからだ。

 彼の心の中には〈光〉が宿っており、いつか、どこかのタイミングで、彼の中に葛藤が生まれ、内側から彼を正しい方向へと導いてくれることを。


 案の定、彼はあるとき告白した。


「あんたは、何が望みだ」

 ミニ庭園のベンチで、アレクは少しイライラした様子で、そう聞いてきた。


「望み?」

「1ヵ月たった今も、あんたは何も要求してこない。俺の裸体からだが欲しくないのか? それとも、ただ、美しい俺を眺めるだけで満足なのか? もうわかってんだろ? 俺は、あんたがセレブだから近づいたんだ。たいていの女は、俺になにかを要求してくる。あんたは俺のなにが欲しい? いってみろよ」


 スズエ婦人はこう答えた。


「アレク…私の望みはただひとつよ。これからも、ずっと、あなたのままで生きてほしい。それだけ…。私はね、神様が私とあなたを引き合わせてくれたこと…そして、この世界にあなたが存在していること…それだけで満足なの。他にはなにもいらないわ…」

「そんなこと、信じられるかよ」

「あなたが信じようと、信じまいと、私には見えるの。あなたの心の中には水晶のようなきらきらした宝石がある。それは、とても綺麗で…私は、あなたをとおしてそれを見るのが好きなだけ…ただそれだけよ…」


 アレクは眉をしかめ、スズエ婦人にかみついた。


「宝石だと? あんたは、なにもわかってねぇ。俺は、あんたが思ってるような人間じゃねぇ。ずるくて、汚くて、俺の心の中にはヘドロのような黒い汚物おぶつが溜まってるんだ。上品なあんたが見たら卒倒するような汚物が、な…」


「いいえ、違う。あなたは、ただ、迷子なだけよ。いつか、きっと、自分の中の光に気づくときがくるわ…」

 そして、スズエ婦人は、陽だまりのような笑顔をアレクにむけ、「わかるのよ…私には、わかるの…」と言いつづけた。


「勝手にしろ!」


 アレクは、とうとう溜まりかねてその場から逃げ去った。

 アレクは、無意識のうちに〈危機感〉を覚えていたのだ。それは、いままでの自分が崩壊する危機感だった。


 そのころアレクは、気づくと、いつもスズエ婦人のことを考えていた。

 レストランで働きはじめたのも、彼女の笑顔がみたかったからだ。


 レストランで働いたら、彼女はどう思うだろうか。

 ギャルソン姿をみたら、誇らしく思ってくれるだろうか。

 「アレク、素敵ね…」

 そういって陽だまりみたいに、笑ってくれるだろうか。


 そう思うと、心が落ちついた。


 だが、その一方で、彼の中に〈罪悪感〉が芽生えはじめる。

 スズエ婦人を利用しているという罪悪感と、自分のようなクソみたいな人間が、まっとうな生活を望んでいるという罪悪感だ。


 いままで、感じたこともない強烈な痛みは、アレクを内側から浸食してゆく。

 アレクは、スズエ婦人から逃げることで、この苦痛から逃れ、すべてをリセットできると思ったのだ。


 だから、彼女にもらった物すべてを109号室のまえに返却し、姿を消した。


「ええ? ちょっと、待ってくださいよ。『俺は旅にでる』って…つまり、ホテルを…ってか、レストランを辞めたってことですよね? ええ? ホテルサイドは、なにも聞いてないぞ? これ聞いたら、レストランの支配人、怒るぞー。私は知りませんよー。まったく、勝手な男だなぁ…」


 アレクのメモを片手に文句をいうホテルマンに、スズエ婦人は答えた。


「いいえ、彼は辞めないわ。きっと、すぐに戻ってくる…」

「で、でも…」

「支配人には、私から頼んで有給休暇にしてもらいます」

「は、はぁ…しかし…」


 合点がいかないホテルマンをよそに、スズエ婦人はあいかわらず、嬉しそうにほほえみながら「わかるの…私には、わかるのよ…」とつぶやき、


「だって、ここは、アレクの居場所だから…」


 そう言った。


 それから1週間後――スズエ婦人の予想どおり、アレクは、ふらりと戻ってきた。 

 ミニ庭園のベンチにで読書をするスズエ婦人の隣に、なにごともなかったかのように座り、缶コーヒーを飲みはじめたのだ。


 スズエ婦人は、目線を文庫本に向けたまま、ひとこと、


「お帰りなさい」


 そう、つぶやく。


「………」


 アレクは、無言だった。

 スズエ婦人から、その表情をうかがうことはできなかったが、仏頂面で、眉間にしわを刻み、まっすぐ、遠くの水平線をにらみつけていることは想像できた。


 アレクが口を開いたのは、それから1時間後のことだった。

 謝罪もせず、言い訳もせず、ただ、この1週間、どこにいって何をしたか…たわいもない旅の話をはじめたのだ。


「…それでな。俺はついでにスフィア山のふもとまで足を運んでみたのさ。そしたら、あそこは、とにかく、スフィア教の信者だらけ!

 で、あいつらの話を聞いたらみんな口をそろえていうんだぜ。『スフィア様は、スフィア山に〈お隠れ〉になっているだけで、いまも生きてる。その〈お姿〉を見た者もいる』ってさ!

 いや、驚いたね。あそこの連中は、みんな頭がおかしいんだ…いや、笑い事じゃねぇよ、マジで。スーザン、ちゃんと聞いてくれ…」


 アレクは、そのあとも、ひとりで弾丸のようにしゃべり倒し、それを聞くスズエ婦人は、いつものようにコロコロと鈴を鳴らしたような美しい声で笑いつづけた。


 ふたりの〈聖域〉は、そうして出来上がったのである。



          ***



 その夜、アレクが寮の部屋にもどると、ベッドのうえに、スズエ婦人の筆跡の手紙が、一枚、置いてあった。

 それに目を通したアレクは、それを丁寧に小さくたたんで、ジーンズの尻ポケットに入れた。

 

 それは、いまでも、そこにあり、アレクの〈お守り〉となっている。



 ――覚えていてね。

   いままでも、これからも、

   あなたが、どんなに道をはずした生き方をしても、

   私は、ずっとあなたの味方です。


   私は、知っています。

   あなたが何を思い、何をしていても、心の中の〈光〉は消えない。


   見つめなさい。

   暗い暗い心の中の、深い深い底に沈む〈魂〉のカタチを。


   答えはいつも、そこにある。

   本当のあなたは、そこにいる。


   心のままに、生きなさい。

   アレキサンダー・スーパー・トランプ。


   あなたは、そのままで美しいのだから…。




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