53|運命の刻
サクラは、ケビンが殺される一部始終を、数メートル離れた場所から見ていた。
見るといっても、それは、数回まばたきするあいだの一瞬の出来事である。助けようにも助けられず――いや…そもそも、助けに入ったところで、いったいなにができただろう。
一瞬のうちにスズエ婦人は、およそ人間とも思えぬ謎の生物――白装束の男が言っていた『おぞましい怪物』に姿を変えてしまったのだから。
だが、その怪物のグロテスクな体に
青い小花がらのワンピース。ベージュのカーデガン。足元には、抜け落ちた銀色の髪の毛が散乱し、ケビンの
「ああああああああ…!!!」
サクラは、悲鳴ともつかぬ、恐怖で凍りついた声をしぼり出すだけで精一杯だった。
サクラは動けなかった。
彼女の変異した姿は、そのまま自分の未来の姿でもあるはずだったが、いまは、その恐怖より、ただ、目の前でくりひろげられている惨劇に目を奪われ、ケビンの首元に頭をうずめ捕食しているその異形の怪物を、見つめつづけることしかできなかったのである。
やがてその怪物は、サクラの存在に気づき、‘グググ…’と喉をならしながらゆっくりと首をもたげ、数メートル先から、その、なにもない顔をこちらへ向けた。
‘ドクン’と、サクラの心臓がはねる。
ぬらぬらとしたピンクの舌が‘ぺろり’と動いた瞬間、次のターゲットが自分に向いたことをサクラは悟る。
「逃げなければ」という思いと「逃げても無駄だ」という思いが交錯し、けっきょくサクラは、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき――
「そのまま、動くな…!」
サクラの背後で声がひびく。
その声は、アレクだった。
ふり向くと、アレクは、サクラのななめ後ろから、怪物に銃口をむけて立っていた。
アレクは銃を持っていたのだ。
それは、サクラが知っている9ミリ銃より破壊力のあるマグナム銃だった。
(アレクが、銃を…?)
(なぜ…?)
ケビンが叫んだ直後、おそらくアレクは車内に留まって、銃を取り出してから駆けつけたのだ。
意識的にそうしたものか、条件反射的な無意識行動だったのか――どちらにしたところで、その行動は正しかったといえるだろう。いま、目の前にいる怪物がただの怪物であったとしたなら、だ。
だが、当然――いま、アレクが対峙している相手は、ただの怪物ではなかった。
自分の心を
『 俺は、エムズを、殺せないんだ… 』
つい今しがた聞いた、アレクの告白…そのときの苦悶の表情とふるえる声が、まだ鮮明にサクラの記憶に残っている。
いま、彼の脳裏には、バスターズでの失敗――小川で水を飲む怪物に銃口を向けたまま動けなかった、そのシーンがフラッシュバックしているはずだった。
案の定、アレクがかまえる銃の先端は、方向が定まらず‘ぶるぶる’とふるえている。
「アレク…無理よ、あんたには撃てない…」
「黙れ…!」
アレクの額には、玉のような汗が浮かび、相貌は血の気が引いて青白かった。
「私に、銃を貸して…私がやる…!」
(アレクには撃てない…)
(だったら、私がやらなくちゃ…)
サクラの体内を電流が走ったようなしびれが駆け巡り、恐怖で気を失いそうになる中――サクラは、ひとつの強い使命感を抱く。
もし、この怪物の中にスズエ婦人の魂が残っているなら、彼女は自分に託すはずだとサクラは思った。彼には殺せないことを、スズエ婦人は、もうずっと以前からわかっていたに違いなかった。
もしも邪悪な怪物の中に、彼女の魂が閉じ込められているなら、それを解放してあげられるのは自分だけだ。なんとしても、アレクに殺させてはならない。それは、スズエ婦人の願いでもあるはずだとサクラは思い…。
(ぜったい、アレクに撃たせてはだめ…)
(私が、やらなきゃ…)
(私が…!)
だが――
「部外者は、引っ込んでろ…」
怯えているような震える声が、サクラの耳に届いた。
すでに日は落ち、あたりは薄闇に覆われ、周囲の様子は、黒雲から発せられる雷光のひらめきでのみうかがい知れる状況だったが、それでも、彼の様子ははっきりとサクラに見えていた。
「スーザンと約束したのは、俺だ…俺がやらなくて誰がやる…」
険しい表情で前方を睨むアレクのその目から、一筋の涙がほほをつたい落ちる。
「このスーザンの
ぴたりと、アレクの震えが止まった。
「俺は、約束を果たす!」
引き金をひく指先に‘ぐっ’と力を込め、アレクは一発の銃弾をターゲットめがけて解き放った。
‘ ドウン…!!! ’
銃声は、黒雲の彼方へ吸い込まれるように散り…そのあとには、なにもなかったかのように、雷鳴だけがいつまでも轟きつづけた。
岩だらけの海岸には、首元を食いちぎられた青年の
サクラとアレクは、放心状態のまま、いつまでもそこに立ちつづけた。
***
とつぜん、風が吹いて‘ひらり’と何かが舞う。
それは、ひらひらと舞って浜辺に落ち、やがて波がさらって海の彼方へと運ばれてゆく。それは、青い小さなバラ模様がプリントされたワンピースの切れ端だった。
それは海を漂いながら、スズエ婦人の願いを乗せ、たゆたっていた。
『 彼は、迷子なの… 』
『 私は、アレクの心に灯る〈光〉になるわ… 』
その願いはついに叶わぬまま、
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