52|閃光

 サクラの中に、戦慄が走った。

 その瞬間――数十分まえの、スズエ婦人の言葉が、脳裏によみがえる。


『 私は、もう少しここにいるわ。サクラちゃんは行きなさい 』

『 あと5分だけ夕日を見たいの… 』


 サクラは一瞬で理解する。スズエ婦人は、はじめから海に身をなげるつもりで、自分を遠ざけたのだと。


(あのとき…)


(どうして私は、彼女のそばを離れてしまったの…?)


 サクラの心に、後悔の念が、洪水のように押しよせた。

 約束の‘5分’が過ぎたことにも気づかず、アレクとの会話に没頭してしまったことも悔やみきれない。おそらくスズエ婦人は、いつかどこかのタイミングで、海に身を投げることを考えていたのだと、サクラは想像する。


(知ってたんだ…)


(スズエさんは、知ってた…何もかも、すべて…)


 アレクがスズエ婦人との〈約束〉を果たせないことも、アレクが企てた計画も、自分(サクラ)がその計画に乗って彼女を研究施設へ連れてゆこうとしていることも、この一連の出来事の真実がどこにあるのか、すべて知っていた…。そうとしか思えなかった。


 アレク、ケビン、それに自分、この三人がついている嘘、罪の意識がトラウマにならないよう、すべてをゼロに戻せる最善の方法を、彼女はずっと考えていたのだと、サクラは思う。


 それは、スズエ婦人みずから命を絶つこと。

 聡明な彼女は、そう思って…。


(ああ…)


(どうして…)


(どうして…)


(どうして…!!!)


「ケビンッ! お願いッ! スズエさんを止めてーーーッ!!!」


 ケビン同様、サクラも一足遅れて軍用車を飛びだしケビンのあとを追うが、岩場がつづくこの海岸は‘ごろごろ’とした岩だらけで、全力で走ろうとしても右へ左へ足を取られ思うように進めない。


 スズエ婦人の運命は、先頭を走るケビンに託すしかなかった。


 ケビン自身も「自分が助けなければ」という使命感を抱き、すでに腰のあたりまで入水しているスズエ婦人に追いつこうと必死で走った。


「スズエさんッ、そんなことしちゃだめだーーーッ!!!」


 さいわいにも、波は海岸のほうへ力強く打ち寄せ、沖へ進もうとするスズエ婦人を押しもどし、その場に押しとどめていた。


(いいぞ、そのまま…そのまま、だ…)


 ケビンは祈る。


 だが、ひとつ、大きな波が来れば、海は彼女を飲みこんで、そのまま沖へと連れ去ってしまうだろう。そうなったら助けるすべはなくなる。


(早く…もっと、早く走れ…!)


 そのとき――ふいに、スズエ婦人がふりむいた。


「あ…」


 吹きつける風の中、ずぶ濡れの髪が顔に張りつき思うように呼吸もできない状況の中で、彼女は笑っていた。陽だまりのようにうれいを秘めた瞳…その奥に光をたたえながら。


「もう、いいの。もう…いいのよ…ケビン。私は、いま、とても幸せだから…」


 その声、その言葉は、波飛沫しぶきにかき消され、ケビンの耳に届くはずもなかったが、彼は、彼女の想いを感じた。


「わかってる…全部、わかってるの。私のためにみんなでついてる優しい嘘…。私はその愛に包まれて、主人のもとへゆく…。これは神様から与えられた祝福…やっと、天へ召されることを許されたの…。ありがとう、みんな大好きよ。ケビン…サクラちゃん…そして、アレク…」


 ――と、そこへ巨大な大波が覆いかぶさり、あっという間に彼女を飲み込んだ。と、その直後、ケビンはそのうねりの中へする。


「だめだ、スズエさぁぁーーーーーーんッ!!!」



          ***



「ケビンッ…!!!」

 サクラは、十数メートル離れた場所から、ふたりのゆくえを見守った。

 波がひき、サクラが見たのは、海岸に残されたふたりのシルエットだった。


「あ…」

 ケビンはスズエ婦人を背後から抱きしめ、波に飲まれまいと、その場にうずくまるようにしゃがみこんで耐えていたのだ。


「ああ…よかった…スズエさん…」


 サクラは、ほっとし、その場で力なく座りこむ。



          ***



「あ、あぶなかったぁーーー…」


 ケビンも、サクラ同様ほっと胸をなでおろし、


「もう…こんなことしちゃだめだよ、スズエさん! びっくりするじゃないか! 俺、泳げないんだからさー…運が悪かったら、俺も一緒に海のもくずになるところだったぞ、ほんとにもぉー…」


 ぶつぶつと文句を言いつつも、スズエ婦人を波打ち際から遠ざけ、安全な浜辺に移動させる。


「だいたい、スズエさんは、どうしてこんなこと…。病気がつらいのはわかるけど、死ぬほどつらい病気じゃないだろ? みたいなものなんだから、ちょっと痛かったり、かゆかったり…それぐらい我慢しなくちゃ…」

 

 ケビンは、エムズがかかる〈風土病〉について、何も知らされてはいなかった。


 エムズの変異は、ノアズ・アーク社の機密事項のひとつであり、ノースランドの僻地へきちにある駐屯基地になど届く情報ではなかったのである。


「それとも、他に悩み事があるのかい? 借金で首がまわらなくなったとか、年金詐欺にあって全財産を奪われたとか…だったら、それはそれでつらいけど、俺たちも力になるからさー…」


「ケ…ビン…」

「なに?」


 スズエ婦人は、ケビンに背後から抱きかかえられながら、小さくかすれた声を、必死で絞りだすように言葉を発した。


「だ・め…私から…離れ・て…は…早く…」

「え? なに?」

「だ…め…離れ・て…」

 

 彼女はケビンの束縛から逃れようと、前かがみになって必死にかぶりをふった。


「始ま・る…へ…へん・い…が…はじ・ま……」

「スズエさん…?」

 

 明らかに、なにか様子がおかしかった。

 だが、なにを言っているのか、ケビンにはまるで見当もつかない。

 束縛をといて、また海に身を投げられたらたまらない。

 だから、ケビンは、必死でスズエ婦人を抱きかかえ続けた。


「スズエさん、落ちつくんだ。もう大丈夫だから…」


 と――その時だった。


「離せといってるのが、わからないのか? くそガキが…」

「え?」

けがらわしいから、私に触るなと言ってるんだ!」

「……?」

「それとも、われたいのか、この私に。だったら喰ってやろうか…?」


 ケビンは、一瞬、なにが起きたのかわからず、条件反射的に彼女から腕を離し、後ずさる。


「スズエさん…? い、いったい、どうしたんだよ? どうなってる…?」


 地の底から響くような、重い声。

 それが、徐々に、獣のような唸り声に変わってゆき…。


 ‘グググ…’と喉がなり、スズエ婦人の背中が戦慄わななきはじめ――小さく、華奢だったその体は、徐々に膨張しはじめた。


「な、なんだ…な、な、なにが起きてるんだ…?」


 ケビンは、金縛りにあったように動けず、頭の中で、走馬灯のように様々な思いがかけめぐる。


(こ、これはなんだ…どういう現象だ…?)


(エムズの風土病は、ただの皮膚病じゃなかったのか…?)


(まさか…)


(これも、また、研究施設の〈機密〉だったのか…?)


(本当は、どんな病気なんだ…?)


(エムズは…スズエさんは…いったい…)


 雷雲はいよいよ激しくケビンの頭上でとどろきはじめ、黒雲こくうんは大蛇のようにうねうねとうごめきながら世界を覆い、悪意を秘めた光をくるめかせていた――と、そのとき、エネルギーを蓄えきれなくなった雲は、落雷となって巨大な光を世界に放出した。


 その直後――うす闇の世界が、光で満ちる。


 そして、ケビンは見た。


「ああ…これは…」


 スズエ婦人――生き物が、ゆっくりと首をまわし、その、のっぺりとした顔をこちらへ向けた。


 目も、鼻も、耳もなくなった、スズエ婦人の原型すらとどめていない、その生き物の形態を、ケビンは知っていた。


(こ、こいつは…)


(いつか、テレビのニュースで見た…あのモンスター…!)


 以前――基地の娯楽室で見たニュース。

 そのテレビ画面に映し出されていたのは、黒い霧がふりつもる大都市の廃墟と化した姿――そこに、どこからともなくあらわれた全身《ウロコ》のような皮膚で覆われたモンスター――そのモンスターに目鼻はなく、口だけが大きく横に裂けて、そこからのぞくサメのような歯と、異様に長いピンクの舌をぺろりと出して、やつらはうごめいていた。


 エイリアンか放射能をあびた生物の突然変異かとニュースキャスターは解説し、世界政府は、その謎の解明をノアズ・アーク社に一任したことを発表していた。

 L=6エル・シックスの精鋭部隊が、そのモンスターをいっせいに駆逐している姿をテレビ画面で見て、ケビンは精鋭部隊の活躍に嫉妬し、自分の不甲斐なさに嫌気がさした。


 まさか、そのモンスターがエムズであることなど、誰が想像できただろう。


(ノアズ・アーク社の、機密だったんだ…)


(俺たちには、なにも知らされず…)


(いつだって、僻地へきちにいる俺たちは仲間はずれ…)


(俺たちは、なんなんだ…?)


(俺は、なんなんだ…?)


(ばかにするのも、いいかげんにしろ…!)


L=6エル・シックス…!!!)


 ケビンが巡らせた思考は、0,1レイ・コンマ・イチ秒。


 その直後――彼の思考は途切れた。


 彼が最後にみたのは、モンスターの異様に発達した右腕――その先端からのびる禍々しいほどに黒く鋭くとがった鍵爪かぎづめが、自分の頭上から振りおろされる光景だった。




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