48|アレクの心に沈むもの〈5〉
『 フィーンまで、20km 』
道路わきの案内看板にそう
〈フィーン駐屯基地〉までは、あと、半日もあれば着くはずだったが、スズエ婦人の「海を眺めたいわ…」というひとことで、
ここは〈ムーントール〉の片田舎――片側には海岸線がつづき、反対側には
「あ! あそこにスフィア寺院がある…」
ケビンが指さす先に、崖を
「『ムーントール名物・まんまる団子、あります』…だってさ! きっと、スフィア祭りの時しか食えないやつだ。俺、ちょっと登って見てくるよ。まんまる団子、買ってくるから…」
ケビンはズボンの尻ポケットから小銭をだし、所持金を確認すると「よし」とうなずき、いそいそと階段をのぼっていった。
アレクは運転席から、浮かない顔のまま、ため息とともにケビンを見送り、そのまま海岸のほうへと視線を向ける。そこには、スズエ婦人とサクラの姿があった。アレクは、なにを思うのか、険しい表情のままスズエ婦人の背中をじっと見つめた。
***
海は、荒れていた。
空は、あいかわらず黒い雲で覆われ、いつまた雨が降りだしてもおかしくない状況の中で、スズエ婦人とサクラは、ベンチがわりになりそうな岩の上に肩をならべて座り、静かに海を眺めていた。
「サクラちゃん、見て…夕日が差してるわ…」
スズエ婦人は、毛布にくるまれながら水平線の彼方を指さし、穏やかにほほえんだ。
「あ…ほんとだ。きれいね…」
サクラは、その指のさきに視線を向け、悪魔の手で目隠しをされているような暗雲の彼方に、目にもあざやかなオレンジ色の光が差しこんでいる光景を見つめた。
「きっと、あそこに主人がいるんだわ…」
スズエ婦人は、歌うようにつぶやく。
「え?」
「あのときも、こんな空模様だったの」
「あのとき?」
「主人が、亡くなったときよ…」
スズエ婦人は、なにを思うのか、とつぜん向こうの世界で亡くなった夫の話をはじめ、サクラはその言葉にそっと耳をかたむけた。
スズエ婦人の夫は、若い頃の暴飲暴食がたたり、ある日、とつぜん、心筋梗塞でこの世を去った。昼過ぎ――夫が遊びに行っているゴルフ場から自宅に連絡があり、スズエ婦人が病院にかけつけたときには、すでに息をひきとっていた。お別れをいう間もなく、彼は、あっけなく天へ
「わけが、わからなかったわ。これはきっと、主人のイタズラだと思ったの。そういうサプライズが大好きな人だったから…」
「………」
「でも、ちがった。間もなく、主人の親族が集まりだして…すぐに遺産相続の話になって、遺言書がどうとか、自分はどれだけもらう約束をしたとか、
彼女は、その場を逃げだし、逗子の海に身を投げるつもりで海岸へたどり着いた。このさき、あの親族たちの中で生きてゆくことなど、到底できないと思ったからだ。
「あのときも、こんなふうに海が荒れてたわ。でも、そのとき、遠くにオレンジ色の光が見えて、神様の声が聞こえたような気がしたの…」
「神様の…?」
サクラは、スズエ婦人がキリスト教の信者だったことを思い出す。
『 あなたの人生は、まだ終わりではありません… 』
『 あなたには、成すべきことがあるのです… 』
『 生きなさい… 』
『 それは、ご主人の願いでもあるのですから… 』
死ぬことを思いとどまったスズエ婦人は、ぽっかりと心に穴があいたまま、自宅へ帰り、ふらふらと寝室へゆき、ベッドに横たわった。いつも隣で寝ていた夫の匂い、ぬくもり、その存在を感じた瞬間――走馬灯のように思い出がよみがえり、彼女はいたたまれず
「私は、そのとき、はじめて知ったのよ」
「なにを?」
「私が、どれだけ主人のことを愛していたのか…どれだけ主人に愛されていたのか…当たり前のように生活していたときには気づかなかった〈愛〉が、失ってはじめて鮮明に見えたの…」
その言葉は、サクラの心を強烈にゆさぶった。
「きっと、サクラちゃんならわかるわね?」
「うん…私、わかる…」
サクラの脳裏には、豪快に笑うトモヒロの姿が映し出されていた。
「それが
「うん、そうね…」
サクラの目に、涙がじわりとわいた。
もちろん、サクラとトモヒロは愛し合って婚約した。けれど、忙しい日常の中で、目に見えない〈愛〉などという感情はどんどんかき消され、埋没し、時には〈憎しみ〉へと変換されてしまうこともしばしばあった。
トモヒロへの想いの大半は〈大好き〉だけれども、その中には〈ちょっと嫌い〉が常に存在していた。
ひとの感情とは、そういうものだ。
失ってはじめて、その大切さに気づくのだ。
それが、いいとか、悪いとかではない。
ただ、そういうふうに出来ている。
「サクラちゃん。別れっていうのはね…本当に大切なものを知るために、神様から与えられた試練なのよ」
「試練?」
「それが見えた時、ひとは変わるの。光のほうへ、歩きはじめるの…」
「光の、ほうへ…?」
スズエ婦人は、さんざん泣いた後、自分の心に〈光〉が宿ったことを自覚した。自分は「夫の分も生きるのだ」と心に誓い、眠りについた。そしてその夜――夢を見ているうちに、気づくと、こちらの世界へ来ていたのだ。
彼女は、そのとき思った。これは神様の『お導き』なのだと。この世界で、自分は成すべきことがあるのだと。
それから1年が経ち、スズエ婦人は旅行先でマナーズ博士に出会い、「これが神様から与えられた使命なのか?」と思い、協力者となったのだが…。
「でも、ちがったの。私は、マナーズ博士のためにこの世界へ来たわけではなかったのよ。それは、1年前…シーサイド・パレスホテルの小さな庭園で彼と出会って、はっきりとわかったわ。私は、彼と出会うためにここへ来たんだって…」
「アレク、ね…」
「ええ、そう…アレクよ…」
それから、スズエ婦人は、109号室のリビングから海をながめていたときと同じ、愁いを秘めた瞳のまま夕日を見つめ、つぶやいた。
「私は、彼を、光のほうへ導くために、この世界へ来たの…」
『 私は、ここにいる… 』
『 この109号室に、ずっといるの。彼のためにね… 』
(そうか…)
(そういうことだったんだ…)
サクラの中で、いままでのスズエ婦人の言動が、すべてつながった。
彼女は、単に美青年のアレクに恋い焦がれて、彼のそばにいたいと願っていたわけではなかったのだ。それは、もっと大きな愛――神様から与えられた、大いなる使命のもと、全身全霊で彼を救いたいと願う、母親のような
「彼は、迷子なの。心の中には光が満ちているのに、まだ、見えていないのね…」
「………」
「だから、私が、彼の心を照らしてあげなくちゃ…」
「愛が、見えるように…?」
「そうよ。私は、アレクの心に灯る〈光〉になるわ…」
スズエ婦人は、愁いを秘めたほほえみをたたえ、雨雲がひろがる空を見上げた。
サクラが見つめた、その横顔は、マリア様のようにやさしく、戦士のように力強い覚悟を秘めた横顔だった。
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