44|アレクの心に沈むもの〈1〉
スズエ婦人が目を覚ました時点で、サクラとアレクの言い争いはいとも簡単に幕をとじた。ふたりにとって、スズエ婦人の容態は、なによりも大切な最優先事項だったからだ。
革張りのベンチに寝そべるスズエ婦人のそばへ寄り、ふたりは彼女の顔をのぞきこむ。
「スーザン、大丈夫か? 気分はどうだ?…ってか、なんで笑ってる?」
「だって…」
アレクの問いに、スズエ婦人は答える。
「あなたたちが、とっても〈仲良し〉だから…つい、ね。あなたたち、よく似ているわ。頑固で、理屈屋さんで、負けず嫌いで…」
お世辞にも「回復した」とは言いかねる顔色だったが、彼女は嬉しそうに目元をほこばせて笑っていたのだ。
「ばか言うな、どこがだよ! こんな女…」
アレクは、ぶつぶつと文句をいいつつも、スズエ婦人のひたいの汗を濡れたタオルでていねいに拭いたり、ずれた毛布をかけなおしたり…甲斐甲斐しく彼女の世話をやいた。
そのかたわらで、サクラもアレクと同じことを思い、さらに、いまの現状を彼女に訴えたい衝動にかられたのだが…。
(こんな男と仲良しなわけないでしょ、スズエさん!)
(私、いま、手錠をかけられてるの!)
(この男、私を研究施設に売ろうとしてるのよ!)
だが、なぜかサクラは、喉もとまで出かかったその言葉をぐっと飲みこむ。
なぜなら、いま、サクラの目の前でくりひろげられてる光景が、あまりにも信じがたく目を奪われる光景だったからだ。
スズエ婦人が小さく咳をすると、
「おい、大丈夫か? 水、飲むか?」
と、すかさずアレクが彼女の上半身を抱きかかえ、ペットボトルの口を彼女の口に近づける。
「
その光景――そのアレクの献身的なふるまいは、すくなからず、サクラの心をゆらした。
まるで母親を看病する孝行息子のように、スズエ婦人を誰よりも大切に思い、なにがあっても彼女を守りたいと願う、愛情深い青年の姿を、そこに見たからだった。
そしてサクラは、そのアレクの横顔をはじめて「美しい」と感じた。
壁に設置された淡いオレンジ色の照明が、うす暗い車内をふわふわと照らすだけの状況ではあったが、それでも十分、彼の表情は読みとれる。
(この男…)
(こんなに、きれいな顔してたんだ…)
深く澄んだ瞳、そこに影を落とす長いまつ毛、整った鼻筋、形のいい唇…。サクラは、ホテルのレストランで、黄色い声をあげる女性たちに囲まれていたアレクを思い出す。
(どうして、いままで気づかなかったんだろう…)
そこで、サクラは気づいた。
この美しさは、内面から来るものなのだと。いま、アレクは、心の奥にある、もっとも美しいものをさらけ出しているからだと。
(これが、この男の本性…?)
ふいに――サクラの脳裏に、アレクの言葉がよみがえる。
『 部外者のおまえになにがわかる!? 』
従業員用の廊下で、彼が、目に涙を
『 俺に、心がないって…? 俺をなんだと思ってる? おまえに、俺の何がわかる!? このネックレスを、スーザンがどんな思いで俺にくれたか…俺が、どんな思いで受けとったか…部外者のおまえになにがわかる!? 』
日頃から、嘘でまわりをぬりかため、なにが真実で、なにが嘘かもわからない彼の言葉の中で、それはゆいいつ信じられる心からの言葉だった。
(アレクにも、心はあるんだ…)
(こんなに、きれいな心が…)
(そういえば…)
(トモヒロは、言ってたっけ…)
『
その言葉は、ホテルでのある出来事と重なる。
***
ある時期、サクラは、ひとりの女性客のコンプライアンスに悩まされていた。いわゆる〈クレーマー〉というやつだ。些細なことで呼び出されては、1時間以上も説教されて仕事にならなかった時期があった。
クレームの内容はいろいろだ。
湯沸かしポットの使い方が複雑でわかりにくいだの、ペットボトルのふたが硬くてあけられないだの、ソファのデザインが気に入らないだの…こちらではどうしようもないことでクレームを言い立てる、ヒステリー気質の〈おば様〉だった。
「もう! あの人、なんなの!? 鬼なの? 悪魔なの?」
どう対応していいかわからなくなっているサクラに、トモヒロはいった。
「咲良…彼女は鬼でも悪魔でもないさ。いいか、人の心の中にはな、キラキラした水晶玉みたいな宝石が沈んでるんだ。それは誰の心の中にもあるものさ」
「あの、クレーマーのおば様にもあるっていうの?」
「ああ、もちろんある」
トモヒロは、サクラに顔を近づけ、まっすぐ目をみて言う。
「ひとの行動にはな、理由があるんだよ。咲良」
「理由?」
「どんなに理不尽なふるまいをする人も、その人なりの理屈があるんだ。あのババァ…いや、おば様にもクレームをつける理由がある。それがわかれば、クレームはなくなるはずだ」
「それは、なに?」
そして、トモヒロは、したり顔でこういった。
「それはな…愛だよ。愛…」
「愛?」
「彼女は愛情に飢えてる人なのさ。誰でも構わない。誰かとおしゃべりがしたいんだ」
「そ、それだけ?」
「ああ、それだけさ」
「………」
それからサクラは、彼女をよく観察し、話をよく聞くことにした。
そして気づいた。彼女は、1ヵ月まえに、溺愛していたトイプードルが死んで、ずっと寂しい思いをしていたのだということに。
それから、サクラはクレームの内容とはおよそかけ離れた世間話をしかけ、そのうち冗談をいって笑いあう仲となり、滞在の最終日――彼女は「ありがとう。また来るわ」と笑顔でサクラと握手をかわし、ホテルを出ていった。
***
ひとの心の奥底には、キラキラとした水晶玉のような〈宝石〉が沈んでいる。
それは、誰の心の中にも存在し、それが表層にあらわれたとき、ひとは、この世でもっとも美しい表情をみせる。
そしてそれは、アレクの心の中にもあるものだ。
サクラは、美しい彼の横顔をながめながら、確信とともに思った。
(そうか…)
(アレクの、この計画…)
(本当は、バスターズへ返り咲くための計画じゃないのかも…)
(アレクの、本当の理由…)
(それは…もしかして…)
(………)
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