37|風のゆくえ

 風が、吹ていた。


 空は、あいかわらず、真っ白でなにもなく――

 風は、海のうえを吹きわたって潮風となり、ポートヘルムの港町を吹き荒れる。


 町のメインストリートを吹き抜け、その一角にあるイベント広場の木々をゆらし、ステージを飾る〈スフィア祭り〉の提灯ランプをゆらし、そこに集まる人々の髪をかき乱し、通りすぎてゆく。


「この空…いっこうに晴れる気配がないな…」

「当日、雨にならなきゃいいけど、ね」

「スフィア様に祈ろう」

「スフィアのお恵みを…」

「お恵みを…」


 スフィア祭りを3日後にひかえ、人々は小さな不安を口にし、スフィアの祈りを口にした。


「あめ、ふったら、おまつり、しないの?」

 そのとき、小さな男の子が母親に手をひかれ、ステージの前を通りすぎた。


「そうよ。だから晴れるように、みんなでお祈りするの」

「うん、ぼくも、おいのりする」

「スフィアのお恵みを」

「‘すふぃあ’の…おめ…」


 男の子は、母親にならって言葉をなぞろうとした、そのとき――目のまえを通りすぎてゆく1台の〈車〉に目を奪われ、言葉はとぎれた。


「わぁ…〈ばすたーず〉だぁ…!」


 彼の目のまえを、カーキ色の軍用車が通り過ぎていったからだ。車体の横に黒く『BUSTERSバスターズ』とペイントされた車に、彼の目は釘づけになった。


「ママ、みた? かっこいいねぇ…!」

「すごいねー。こんなところで見れるなんて、ラッキーね」

「うん!」


 男の子は興奮して目をきらきらと輝かせ、母親は子供に同調しつつ「なぜ、こんなところに?」と首をかしげ、大通りを走り去ってゆく軍用車を目で追った。


 だが――彼らにとっては、その軍用車が、そこを走る理由も、目的も、そんなことは、まるでどうでもいいことだった。


 男の子にとっては、ヒーローごっこのレパートリーが増えただけのことで、母親にいたっては、もうすでに、頭の中は夕食の献立のことで占められ、軍用車のことなど一瞬で忘れさられた。


 その軍用車に、ひとりの〈エムズ・アルファ〉が捕まっていて、ひとりの男の企みによりフィーンへ移送する途中であることなど知るはずもなかったし、どうでもいいことなのだ。


 彼らは、平凡な日常の、ほんの小さな世界で、ささやかな幸せを見つけて生きている人間にすぎず、この世界で起きている…あるいは、起きようとしているクライシス(恐慌)など、想像すらできなかったにちがいない。


 この世界が滅亡へと向かっていることも、〈スフィア教団〉の脅威も、エムズの危機も、彼らにとっては無縁の世界だった。いまは、まだ――。


 だが――風は知っている。


 この世界の片隅には、光の世界とついをなして闇の世界が存在することを。意識をし、目を凝らせば、闇の世界は、そこここに散らばっている。


 その闇は、やがて世界を飲みこみ、人々のささやかな幸せなど一瞬で消し去るであろうことを、風は、知っている。


 風は、すべてを見通し、吹き抜ける。


 大通りを吹き抜け、軍用車の車体をなぞり裏通りへと流れこむ。


 そして、その軍用車――そう、そこには、スフィア教団の窮地から脱し、いまだ麻薬が抜けないサクラと、アレクと、ケビンと、そして…眠ったままのスズエ婦人が乗っていた。


 彼らを乗せた軍用車は、風に導かれるようにして〈フィーン〉の方角へと、まっすぐ走り去っていった。



 彼らの未来に待ちうける運命――それは、風だけが知っていた。




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