36|もうひとつの脅威〈5〉
「お、おまえ…俺の…俺の顔を、
サクラの足元にうずくまり、顔面をおさえる男の、その指の間から‘じわり’と血が
(私だ…)
(これは、私がやったんだ…)
自分が履いているベージュのスキンブーツのつま先が、血で汚れているのを見て、サクラはそう確信し、震えが止まらなくなった。
男は、ふいに立ち上がり、サクラのほほを平手で叩く。
「この…生意気な女めッ!!!」
ついに男は、感情をむきだし、憎しみに満ちた目でサクラをにらみつけながら、そのまま床につき倒し、サクラの顔や頭を
サクラは、とっさに手錠のままの両腕をクロスし、その拳をガードしたが、その上から殴りつけられるせいで、手錠ごと顔面を直撃し、まるで金属で殴られているような痛みが顔全体に走り、口の中に血の味がひろがった。
「や・めてッ!!!」
サクラは、男の
だが――ふと、男の攻撃がとまる。
(……?)
「ああ…だめだ、だめだ…こ、こんな事をしてはいけない! こんなところで殺してしまったら…
男は頭をかかえ、なぜか、自分が感情にまかせて動いてしまったことが、大失態であるかのようにうろたえていた。
「この女はエムズ…エムズは、聖なる火で浄化しなければならぬのだ。スフィアの里の…スフィア神殿の…あの美しい炎で…ああ…」
ぶつぶつと独り言をつぶやきながら、男は、
とたん――中から、赤い粉状のものが飛散し、サクラの目の前でふわりと舞った。
(……!?)
その、赤い粉を吸いこんだ瞬間——サクラは、体が‘ふわり’と浮き上がるような浮遊感にみまわれ、光の中を漂っているような
(ああ…)
(なんか…すごく、いい香り…)
(この香りは、なんだろう…?)
その香り――それは、ポートヘルムでお菓子屋を営む〈エムズ親子〉が消えたとき、路地裏に漂っていた残り
それは、麻薬の一種だった。
***
「おお…そうだ…そうだ…はじめから、これを使っていればよかったのだ。失敗した…失敗した…こんな女ひとりに、こんなに手こずるなど…ああ…
男は、そうつぶやきながら、サクラの手足をロープで縛りはじめる。
「本当は、おまえなど、すぐにでも殺してやるのだが…しかし…それは戒律で禁止されているのだ。おまえは、スフィアの里の、スフィア神殿の中にある〈聖なる火〉で焼かなければ…ふふ…そうだ…おまえは、そこで焼き殺されるのだ。だから、ここで殺してはならぬ…おお、狂おしい…狂おしい…!」
いったい――どうしたら、これほどまでに情緒不安定な人間ができあがるのか――男の言動は、あきらかに異常をきたしており、話す内容も、狂気の沙汰としか思えなかったが、なぜか、サクラの心は穏やかだった。
男に殴られたことも、ロープで手足を縛られていることも、自分が〈聖なる火〉で焼かれることも、なにもかもが正しい事のように思ってしまう。
(そう…)
(私は、スフィアの里に行く…)
「おお…そうだ…祈りを捧げなくては…
男は、床に横たわるサクラのかたわらで、十字を切るような仕草で、呪文のような言葉を唱えはじめた。
「―――罪深き、われらの魂をきよめたまえ…」
(この言葉…)
サクラは、ぼんやりと思う。
「―――われらは、スフィアの子なり…」
(そうだ…この言葉は…)
サクラは思い出していた。ホテルまでの道中――海岸線のところに巨大な球体のオブジェがあり、それを〈ホワイト・スフィア〉だとアレクが教えた、あのときの…。
『 あれは、スフィア教の慰霊碑さ。過去に死んだ〈なんかの魂〉をしずめてるんじゃねぇか? きっと、獣だ。自分たちが殺した獣に「どうか安らかに死んでてくれ」と拝んでるのさ… 』
アレクはそう言い、「耳についちまった」といって、つぶやいた
(そうか…)
(あれは、獣の魂を鎮めているんじゃなかったんだ…)
(あれは、私たち、エムズのための祈り…)
(あの慰霊碑は、エムズの慰霊碑…)
(エムズは、聖なる火で焼かれ、殺される…)
(スフィア教団は、そのためにエムズをさらう…)
(悪しき魂を持ってるから…)
(モンスターに変異するから…)
サクラは、すべてを理解し、受け入れた。
―――罪深き、われらの魂をきよめたまえ
われらは、スフィアの子なり
かれらの、
かれらの
スフィアは、われらとともにあり
われらは、スフィアとともにあらん
スフィアは、永遠なり…
彼らは祈る。
くる日も、くる日も、祈りつづける。
生きたまま焼かれるエムズたちの悲鳴を、心にとどめながら――
***
(そうだ…)
(私は、スフィアの里にいかなくちゃ…)
(悪しき魂を浄化して、生まれ変わるんだ…)
それは、夢か、現実か――もはや、サクラには区別がつかない。
現実の世界に一枚ベールを重ねたような、ふわふわと夢見心地な気分で、なぜか、サクラは、満面の笑みをうかべ、ほほえんでいた。
(これでいい…)
(私は、これで救われる…)
(ああ…)
(なんて幸せなことだろう…)
(なんて…)
(……)
「 ふざけんなッ…!!! 」
そのとき――軍用車の外で、誰かの叫ぶ声がきこえた。
(あれは、アレクの声…?)
‘とろん’と眠たそうに
「 俺の計画を邪魔するんじゃねぇッ!!! この、サイコ野郎ッ!!! 」
陶酔しながら祈りをささげる男の首筋に、スタンガンを押しつけ、男は悲鳴をあげ、からだをのけぞらせ、がくがくとふるえる。
「 とっとと失せろ、くそ野郎ッ!!! 」
アレクは、その男を、軍用車の外へひきずり出す。
それからサクラのところへ戻り、そのかたわらにしゃがみこんで、その様子を
「こいつ、完全にラリってんな…」
「………」
その言葉に、サクラは、ただただ、嬉しそうにほほえむだけだった。
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