35|もうひとつの脅威〈4〉
「さぁ、ここを出るのです…」
男は、それが当然だとばかりに、無遠慮にサクラの腕をつかむと、乱暴にベンチから引きはがした。
「ちょ、ちょっと待って! やめて!」
「どうされましたか?」
「やめてよ! 私、どこにも行かないから…」
「……?」
男は、無表情のまま小首をかしげる。
「なぜです?」
「なぜって…」
サクラは、当然、男が、この状況から自分を救おうとしているのだと思っていた。ホテルの外へ逃げたとき「たすけて」と叫んだ――その声をきき、駆けつけてくれたのだろうと。
だから、サクラはいったのだ。
「きっと…いま、あなたは、私が悪者に捕まってると思うんでしょうけど…でも、それは、ちょっと違うの。じつは、これには複雑な事情があって。と、とにかく、私はここを離れるわけにはいかない! あなたの行為には感謝するけど…お願いだから、どうか、このまま立ち去って…」
「ふ…」
ふいに、男は笑った。
「な、なにが、おかしいの…?」
サクラの背中がぞくりと粟立つ。
男は、のっぺりとした顔をサクラにむけ、口元だけを三日月型にゆがめ、薄く、冷ややかに笑っていたからだ。得体の知れないほほえみは、サクラに恐怖しか与えなかった。
「あなたは、勘違いしているようです」
「なにを、よ?」
「あなたを助けるという意味は、そういう意味ではありません」
「……?」
「我々は、あなたの中に存在する〈悪しき魂〉を浄化してさしあげるという意味で『助ける』といったのです」
「あ・しき魂を、じょう・か? あなた、なに言ってるの…?」
「おお…可哀そうに…!」
すると男は、芝居がかったようにわざとらしく嘆きながら、三日月型の口元をさらにゆがめ、すっと目を細めた。
「あなたは、ご自分の状態をわかっておいでにならないのですね? あなたは、もうすぐ〈変異〉するのですよ? この腕に浮かぶ黒い〈ウロコ〉が、その証拠…」
「…ウロコ?」
「そう…これは、ウロコです…」
サクラの心臓が、小さく‘ ドクン… ’と波打つ。
男のいう〈ウロコ〉という表現があまりにも適切だったからだ。
さらに男は、サクラの耳元でささやく。
「あなたは、もうすぐ、
死の宣告をする無慈悲な外科医か、死神か――サクラに残酷な真実をつきつけ、男は
「ほら…これをご覧なさい。このウロコは
男は叫びながら、つかんでいるサクラの右腕を力まかせにひきあげ、サクラの目の前にさらした。と、自動的に手錠でつながれた左腕もひっぱられ、左手首に痛みが走る。
「や・めて…! これは、そんなんじゃない! これは、ただの風土病よ!」
(そう…)
(これは、ただの風土病…)
(この場所を離れれば、治る病気…)
「治りませんよ? その病気は…」
サクラの心を読んだかのようなタイミングで、男はいう。
「風土病とは、よく言ったものですね。たしかに、エムズにとっては風土病かもしれません。この世界の風土に馴染めず…免疫もなく…悪しき魂に〈感染〉したのですから。
しかし――あなた自身も、本当は、わかっているのでしょう? ご自分の中に、ご自分ではない、別のなにかが
「そんなの、わかるわけない! 私は、私よ!」
だが――その言葉とは裏腹に、なぜか、サクラは、男の言葉を信じていた。
『 あなたは、もうすぐ、
ここは、異世界。
想像もつかない、悪夢のような事象が起きる場所なのだ。
(そう…)
(私は、知ってる…)
(これは、病気なんかじゃないって…)
サクラの心臓が‘ドクドク’と音をたてて動きはじめる。
サクラはわかっていたのだ。スズエ婦人の豹変を目の当たりにしたときから、必死でそれを見まいとしてきたが、この悪夢のような真実から、目をそらすことなどできないのだということを。
見たくない自分、見たくない真実にフタをしても、いつかは対峙しなければならない時がくる。どんなに抵抗してみても、目の前の不安…その恐怖から逃れるすべなどないことは、サクラにもわかっていた。
恐れずに、見ろ。
恐れずに、受け入れろ。
真実は、真実。
受け入れなければ、その先へは進めない。
絶望を受け入れる、勇気を――!
(私は、知ってる…)
(これは…)
(これは…)
(これは…)
と、そのとき――
『 殺せ…!!! 』
サクラの頭の中で、声がひびいた。
もう一度、サクラの心臓が、‘ ドクン… ’とはね、体の奥が‘かっ’と熱くなった。
(私は、知ってる…)
(これは…)
(私の中にいる
サクラは、自分の中に蠢く〈闇〉…その真実を受け入れた。
***
と、つぎの瞬間—―サクラの視界がぐらりとゆれ、同時に意識がとぎれた。
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
気づくと――男は、自分の足元でうずくまり、顔面をおさえ
「………」
これは、自分の中の〈怪物〉の仕業であると、サクラは一瞬で理解した。
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