32|もうひとつの脅威〈1〉
「は、放してよッ!」
「そういわれて、放すと思うか?」
アレクは、サクラに顔を近づけ、憎々し
サクラは、アレクとバスターズの青年に両側から押さえつけられたまま、軍用車がとまっている駐車場のほうへと引きずられてゆく。
「はじめから、知ってたのね!」
「ああ…なにもかも、な…!」
「あんたは、本当に、サイテーな男よ!」
「だから、警告しただろ? 覚えてないか? 車の中で、俺は、ちゃんとおまえに言ったはずだ…」
糸杉の森から車で移動中――スフィア教の慰霊碑を通り過ぎたあたりで、彼はたしかに言ったのだ。生き物を大量に殺すことに罪悪感などないと言い、それから、こう続けた。
『 俺は、非情な男なんでね… 』
『 だから、俺は、どんな罪だって犯せるんだ… 』
サクラは、思い出す。負のオーラを漂わせながら、バックミラー越しに自分を見つめたアレクの顔を…。
(あの時から、この男の計画は始まってたんだ…)
(私は、知ってた…)
(この男が〈要注意人物〉だって…私は、ずっとわかってた…)
(ずっと、警戒してたのに…)
(それなのに…)
わかっていながら、自分の関心は、まったく別の方向へ傾いてしまった。
そのことが悔しくてたまらず、サクラはアレクを睨みつけながら唇をかんだ。
「私を、どうするつもり?
「ああ…そのつもりだ。まずフィーン駐屯基地まで、おまえを移送する。それから研究施設に連絡してL=6と交渉するのさ」
「なにを交渉する気か知らないけど、私ひとりじゃ無理だと思うわよ!」
「ツトムのことを言ってるのか?」
「そうよ!」
「俺が、そんなマヌケだと思うのか?」
「……?」
「ツトムは、別のチームが追ってる。今頃、すでに別の車でフィーンへ向かってるかもな。あいつは、ガキを捕まえるより簡単だ」
アレクは、勝ち誇ったように上からサクラを見降ろし、にやりと笑った。
その黒いほほえみは、レストランで料理人だと偽ったことをツトムがあっさりと許し、形勢が逆転したときに見せた、
「いい人かもしれないって…思ったのに…」
サクラの目に、じわりと涙がうかぶ。
「あんたの涙をみて…あんたにも心はあるって…」
その涙は、しずくとなって頬をつたい、ぽたりと落ちた。
「やっぱり…心なんてなかった。あの涙も嘘だったのね…」
「嘘じゃねぇ」
「だったら、どうして様子を見にいかないの!? 具合が悪いって知ってて…どうして彼女を放って置いたの!? スズエさん倒れたのよ? だから、私…あんたを呼びにいって…それなのに…」
「なんだと?」
とたん、アレクの顔色が変わる。
「スーザンが倒れたのか?」
「そう言ってるでしょ!? なんか、様子がおかしかった…まるで、別人みたいで…」
「それを、先に言え!」
アレクは、青ざめたまま、数秒、なにかを考えあぐねるように視線をさまよわせたあと、鋭い眼光で相棒をみる。
「ケビン、予定変更だ! 彼女も研究施設へ連れてく」
「はっ!?」
相棒のケビンは目を丸くし、
「おまえ、なに言ってんだ? そんな勝手なこと…」
「5分で戻る。この女を、手錠でつないどけ!」
アレクは、相棒の言葉など聞いてもいなかった。あきらかに慌てている様子で、通用口へと走ってゆき、ホテル内へと姿を消した。
***
「スフィアのお
「お恵みを…」
それは、スフィア祭りで人々が交わす、お決まりの挨拶だ。
北の大地で暮らす人々は、ほとんどが〈スフィア教〉の信者だ。形骸化された部分もあり、熱心な信者から、そうでない者まで様々ではあったが、スフィア教の救世主〈スフィア様〉は、いまも人々の心の中にあり、人々の暮らしの中に溶け込んでいた。
スフィア教の発祥は、3000年前にさかのぼる。
その昔、この北の大地に隕石がふりそそぎ、大地は燃え、すべてが焼き尽くされるかに思えたそのとき――どこからともなく、ひとりの少年が銀色の竜に乗ってあらわれ、光の雨を降らせたという。それで、大地はよみがえった。
その少年が〈スフィア〉だ。その『スフィア伝説』は、いまも人々の心を魅了し、その少年の活躍に感謝と祈りを捧げていた。
「スフィアのお恵みを…」
「お恵みを…」
「みなさまのお幸せを…」
「お幸せを…」
シーサイド・パレスホテルのホテルマンも、メイドも、宿泊客も、みな、あたりまえのように言葉を交わしあう。そしてホテル内には、黒いガウンコートを着た〈スフィア教〉の信者の姿もあり、彼らは、より熱心に挨拶を交わし人々との
「スフィアのお恵みを…」
「お恵みを…」
「このご旅行が、あなた様の良き思い出となりますよう…」
「ありがとうございます、司教さま…」
司教と呼ばれた男は、その旅行者の肩にそっと手をそえ、慈愛に満ちたほほえみをむける。
その言葉によって、人々の心の中に、この世界に、光が満ちてゆく。
一方で――
「スフィアのお恵み・を…」
シーツをかかえたメイドが、向こうから走ってくる男に言葉をかけたが、男は、その言葉を無視して走り去っていった。
「やだ…無視されちゃった…」
内気そうなメイドは、傷心のまま、それでもほほを赤く染め、走り去った美しい男に乙女心をゆらした。
金髪のセミロングヘアを無造作に後ろで束ねた、メンズモデルのようなその男は、そのまま109号室へと走ってゆく。
その部屋のまえでは、ひとりのホテルマンがドア・チャイムを鳴らし、室内の様子をうかがっているところだった。サクラがフロントで声をかけたホテルマンだ。
「
「おまえ、なに悠長なことやってんだ!? さっさと開けろッ!」
「アレク!」
そこへ、合流したのはアレクだ。
「スーザンが死んでもいいのか!?」
「わ、わかった…い、いま、開けるよ…!」
ホテルマンは、アレクに
「おまえ…スーザンの部屋でなにやってる?」
アレクはいぶかし気に、男をみる。
「失礼いたしました。我々は、スフィア教団のものです」
白装束のフードを頭からすっぽりとかぶり、目元に黒い影を落としたまま、男は抑揚のない声で淡々と説明した。
「部屋のまえを歩いていた時…部屋から、若い女性が血相をかえて飛び出してきたので、気になって中を覗きました。そうしたら、ご婦人が倒れていまして…」
「そ、そのご婦人は無事なんですか!?」
ホテルマンの質問に、男は淡々と答えた。
「はい。ですが…具合が悪そうだったので、我々の車で、いま、病院へ運んでいるところです」
「ああ、そうだったんですね! だったら、とりあえず安心だ…」
「病院に着きしだい、あらためてご報告を…と、思っておりました。いまの時期はホテルもお忙しいでしょう? ここは我々にまかせて、どうぞ職務に専念されますよう…」
「あ、ありがとうござます。では、そうさせていただきます」
「おまえ、この男を信用するのか…?」
アレクの懸念とは裏腹に、ホテルマンはすっかり男を信じている様子だった。
「アレク、きみはまだまだ新人だな? 彼はスフィア教団の人だ。スフィア教団といえば、この地域の住民にとってはヒーローだ。困りごとはなんでも無償で引き受けてくれる、頼もしい味方だよ」
「恐れ入ります」
と、男はいった。
「じゃ、僕は仕事にもどるよ。ここで待ってても仕方ないだろ? すぐ病院から連絡が来るはずだ」
そういって、ホテルマンは109号室を離れていった。
「………」
だが――アレクは、はなから男の言葉など信じてはいなかった。
それは、彼の中にある〈野生の勘〉とでもいうべき本能が、目の前にいる男を信じるなと、彼に教えたからだ。そして、その勘は正しかった。
スフィア教団は、スフィア教にあらず。
表向きは、スフィア教となんら変わらぬ宗教団体だったが、彼らには裏の顔があり〈真の目的〉があった。
スフィア教の影に隠れ、人々の暮らしの中にこっそりと根をはり、この世界を暗闇に変えようと目論む〈闇〉の集団…それがスフィア教団だった。
サクラの脅威となるものは、アレクなどではなかったのだ。
いま、サクラが警戒すべきは、スフィア教団の脅威だったのである――!
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