29|異変〈2〉

 彼女は、まるで別人だった。


 もちろん、具合が悪い人間が身だしなみをおろそかするのは当然だ。

 髪もとかさず、身にまとっているガウンの腰ひもがきちんと結べず、床に垂れ下がっていても―—スリッパも履かず裸足のままでも――それは仕方のないことだろう。


 だが―—


「なんだか、とても…具合が悪いのよ…」


 色白だった肌は土気色に変わり、目の下には、どす黒いくまがくっきりとあらわれ、彼女は、まるで変異する直前のゾンビのような、違和感だらけの姿で「どうぞ入って」と、よろよろとサクラを室内へとうながした。


「スズエさん…だ、大丈夫…?」

「ええ…大丈夫よ…」

 目はとろんと重たそうに垂れ、いつもの陽だまりのような笑顔も消え、心も消えてしまったかに見えるのだ。


「寝てたほうが、いいんじゃない? それとも、フロントに言ってお薬もらってこようか? それとも病院へ…」

「病院は、嫌よッ!!!」

 とつぜん、彼女は噛みつくようにサクラに吠えた。


「……!?」

「私を、病院のベッドに縛りつける気なのッ!? 私を追い払って、私の財産を奪う気なのねッ!?」

「そ、そんな…スズエさん、な、なにを言ってるの!?」


(いったい、なにが起きてるの…?)


(これも、風土病のせい…?)


「わ、わかった。フロントには言わないから…と、とにかく…ベッドへ…」

「嫌よッ! 離してッ!!!」


 彼女は、サクラが支える手をふりほどき、テーブルの上の花瓶を取ると、サクラめがけて投げつけた。それは、サクラの頭をかすめ、壁にたたきつけられ粉々に砕け散る、と…その直後、彼女は‘はっ’とし、表情を一変させた。


「ああ…! 私ったら…まぁ…どうしましょう…!」

 正気に戻ったということか―—いつもの〈スズエ婦人〉に戻った彼女は、床に散乱しているガラス片を見てうろたえ、そのまま、ゆっくり、その場にくずおれた。


「スズエさん! しっかりして…!」

 床に寝そべるスズエ婦人の体を起こすと、彼女の震えがサクラにも伝わってくる。

 彼女も、自分に起きている異常事態を自覚しおびえているのだ。


「サクラちゃん…」

 彼女は、震える手でサクラの腕をつかみ、絞り出すような声でつぶやく。


「お願い…アレクを…アレクを呼んで…」

「それより、フロントへ…」

「いいえ、それはだめ…お願いだから…彼を…早く…彼を…」


 誰を呼ぶかで、口論している場合ではなかった。


「わ、わかった。いま、呼んでくるから! このまま、ここに寝てて!」


 サクラは、ドアが自動で閉まらないようラッチで押さえると、なかばパニック状態のまま、廊下へと飛び出していった!



         ***



 1週間まえ―—

 ホテルの〈ミニ庭園〉のベンチに、アレクとスズエ婦人の姿があった。


「なぁ…スーザン。俺に、その十字架クロスのネックレスをくれないか?」

「どうして? これは、主人の形見よ? この世で一番大切なものだわ」

「だから、欲しいんだ」

「どうして?」


「わかってるだろ? 俺は、近い未来に、あんたを失う。あんたを、この手で…」

「………」

「そうなっても、正気を保っていられるように、あんたの魂が宿るものが欲しいのさ…」

「………」


 スズエ婦人は、ミニ庭園の向こうに広がる海をながめながら、穏やかにほほえんだ。その瞳の奥には、愁い、悲哀、絶望の色が溶けあってゆらめく。


「わかったわ、あなたにあげる。でも…1週間だけ待ってちょうだい。ちゃんと、主人とお別れがしたいから…」

「いいぜ。しっかりと、お別れしてくれ」


「じゃ…1週間後に、ここで、ね…」

「ああ…1週間後に、な…」


 そして―—それは1週間後、アレクのものとなったのだ。



          ***



 とつぜん――風が吹いた。


 午前中、さんさんと太陽の光がふりそそいでいた港町は、いつの間にか白い雲でおおわれ、ときおり突風が、木々の葉をはげしくゆさぶって通り過ぎてゆく。


 どこまでいっても、真っ白でなにもない空は、嵐がくることを予感させるわけでもなく、かといって、晴れ間をのぞかせるわけでもなく、ただそこに虚無的な空間をつくりあげていた。


 ただただ、風だけが吹きすさんでいる。


 ホテルの正面玄関に飾られた、スフィア祭りの提灯ちょうちんランプも、風にあおられ、ちぎれんばかりに揺れていた。


 そのホテルの前を、一台のカーキ色の〈軍用車〉が通りすぎ、ホテルの裏手にある駐車場へと姿を消す。その車は駐車場の片すみに静かに止まった。


 まわりを頑丈な鉄でおおわれた装甲車のようなその車には、羽目殺はめごろしの窓しかなく、運転席のうしろには金網がはられ、それはまるで囚人を運ぶ〈護送車〉のようなつくりになっていた。

 その車の運転席から、ひとりの青年がドアをあけ、アスファルトに足をおろした。


 その青年は〈バスターズ〉の制服を着ていた。

 アレクと手を組み、フィーン駐屯基地からやってきたケビン・ジョンソンだ。


「よぅ! やっと会えたな、ケビン…俺はアレクだ」

「ああ…俺がケビンだ。よろしくな相棒!」


 ケビンと名乗る青年は、通用口からあらわれたアレクと軽く握手を交わし、ふたり肩を並べて、また通用口へと歩いてゆく。

 アレクの手には、銀色に光る手錠とスタンガンらしきものが握られ、それらをジーンズのポケットに隠し入れながら、ケビンと目配せをしてうなずきあった。



 いよいよ、アレクの〈計画〉が、動きはじめた――。




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