28|異変〈1〉

 アレクがいなくなった廊下で、サクラはひとり壁にもたれたまま動けないままでいた。あまりにも突然の豹変に、サクラの心臓は、いまだ‘ばくばく’と音を立て揺れている。


 サクラの脳裏に焼きついているのは、アレクの涙だ。


 ナイフのような鋭い視線を突きつけながらも、その目には涙がにじんでいた。そのきだしの感情…その言葉は、彼が今までに発した言葉の中で、唯一信じられる言葉であり感情だった。


 それだけに、その言葉は、サクラの心を深くえぐったのだ。


『 このネックレスを、スーザンがどんな思いで俺にくれたか…俺が、どんな思いで受けとったか…部外者のおまえになにがわかる!? たった1日、スーザンと過ごしただけで、なにもかも知った気になるんじゃねぇ…! 』


 たしかにアレクのいう通り、サクラは何も知らなかったのだ。何も知らないくせに、勝手な想像で彼を詐欺師と決めつけ追いつめてしまった。


 いまだ、サクラの中には驚きと恐れの感情が渦巻いていたが、それよりも、サクラの心を大きく支配していたのは、彼を傷つけてしまったことに対する自責の念だった。


(たしかに、私は、部外者だ…)


 たった1日このホテルに滞在しているだけの旅行者に、なにがわかるというのだろう。1年前から関係を続けている彼らのことなど、わかろうはずもなかったのだ。


 他人ひとには、他人ひとの事情がある。アレクとスズエ婦人の関係は聖域サンクチュアリの中にあり、簡単に他人が踏みこんでいい領域ではなかった。


 それが何かは、わからないが…サクラは、やっと、そのことに気づいたのだ。


(私…なにやってんだろ…?)


(ひとりで走り回って、空回りして…)


(ばかみたい…本当に、ばかみたいだ…)


 サクラは、鉛のように重い心をもてあましながら、何もない、真っ白な天井を見上げた。



          ***



 〈従業員専用口〉を出てフロント・ロビーに差しかかったところで、サクラはツトムの姿を発見する。


「あ…サクラ! やっと見つけたよ」

「ツトム…」

 バックパックを背負い準備万端のツトムを見て、サクラは港へゆく約束をしていたことを思い出す。


「ごめん、ツトム…私…」

 到底その気にはなれず、スズエ婦人の容態も気になっていたサクラは、そのことを報告したのだが、ツトムからは意外な答えが返ってきた。


「そうか。じゃ、港は僕ひとりで行ってくるよ」

「え? ひとりで?」

「大丈夫さ。僕は、とにかく、早くサクラを南へ連れてってあげたいんだ。風土病があるだろ。それに、僕には責任があるからね。研究施設からの脱走を誘ったのは僕だ。〈コスモ・スポット〉に着くまでは、何があってもきみを守らなきゃ…」


『 ツトム、サクラを守れ! 』


 いまだ、ツトムの中には4Cフォーシーの言葉がある。


「ツトム…本当に大丈夫? もし、ちょっとでも怪しい人がいたら逃げるんだよ」

「うん、わかってる」

「絶対に、つかまらないで」

「うん、わかってるよ。当たってくだけろ、だ」


 ツトムは、ガッツポーズをしながら、ぎこちなく笑い、それから、なにか言いにくそうに口ごもりながら言葉をつづけた。


「サクラ…じつは…マナーズ博士が書いた手記のことで、話したいことがあって…」

「マナーズ博士の…手記…?」

「ま、とにかく、港から帰ったら109号室へ行くからさ。スズエさんの具合も気になるし…その話はスズエさんにも関係あるから…だから、3人で話したいと思うんだけど、いいかな?」

「うん、わかった。じゃ、109号室に集合ね?」

「うん。じゃ、そういうことで…」


 そういって、ツトムは片手をあげ、エントランスホールを出て行った。

 サクラは、その背中を見送ったあと、そのまま109号室へと足をむける。


(マナーズ博士の手記って、なんだろう…?)


 スズエ婦人にも関係があるということは、風土病のことだろうかとサクラは思った。マナーズ博士が〈特効薬〉でも開発したのだろうかと。


(そんなわけ、ないか…)


(宇宙物理学者が、薬なんか作らないよね…?)


 物理のテストが35点だった自分が、足りない頭で想像したところで何もわかるはずはないと、サクラは‘ぶんぶん’と頭をふって無駄な想像を吹きとばす。


 博士は、L=6エル・シックスの製薬会社《ノアズ・アーク社》の職員でもあったのだが、主に研究施設内で〈宇宙のゆらぎ〉が観測できる場所——いわゆる〈ゲート〉の地質調査などを行っていただけで、薬の開発・製造とは無関係だった。


 だが、研究施設内で働く博士の耳には、探ろうとせずとも、様々な情報が〈噂〉となって届く。彼は、その中で、ある真実を知った。


 それは——この星の滅亡にも関わる重大な真実だった。

 博士はそれを手記に残し、スズエ婦人のクローゼットの中にそっと隠した。

 そしていま―—十数年の時を経て、ツトムが見つけ出したというわけだ。


 それは〈ノアズ・アーク社〉の中でもトップクラスの人間しか知りえない、重大な機密だった。

 『エムズに関する極秘情報』とタイトル付けされたその手記には、こう書かれていた。


 ―——エムズが感染する病原体は、いまだ謎に包まれている。それは人格をも破壊し、いずれあるモノへと変異する恐るべき病原体だ。エムズにとって、それは〈風土病〉のようなものだろう。


 見知らぬ土地アナザーワールドへあらわれた彼らが、この病から逃れる方法はただひとつ。向こうの世界へ帰ることだ。私は、急がなければならない。向こうの世界へ戻す方法を、なんとしてでも探さねば…。


「スズエさん、サクラでーす。いますかー?」


 サクラは、109号室のまえでスズエ婦人が出てくるのを待って、何度かチャイムを鳴らしたのだが、中からの応答はなかった。


「あれ? どうしたんだろ?」


 起き上がれないほど具合が悪いのか…万が一部屋の中で倒れてたら大変だと思ったサクラは、フロントに言ってドアを開けてもらおうかと思い迷う。

 が…そのとき――中から‘がちゃり’と鍵をあける音がきこえドアが開いた。


「サクラちゃん…ごめんなさいね。気づかなくて…」

「ス、スズエさん…」

 ふらりと、ドアの向こうから顔をのぞかせたスズエ婦人を見て、サクラは‘ぎょっ’として目をみひらく。


 彼女は、まるで別人のようだったからだ。




           

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