26|サクラの杞憂〈6〉

 それは、翌朝——305号室のベランダから望める〈ミニ庭園〉からはじまった。


 サクラが、寝不足の目をこすりながらベランダに出ると、ツトムは双眼鏡で海をみていた。双眼鏡は、研究施設から持参しているツトムの〈七つ道具〉のひとつだ。


「なにを見てるの?」

 サクラの問いに、彼は、


「ポートヘルムの港をね。ま…遠くて、あんまりよく見えないけど…」

「まだ〈ゴールデン・アイランド号〉は到着してないでしょ? たしかスズエさんは2週間後に来るって」

「そうだけど…」

 ツトムは、言いよどみながら双眼鏡をはずし、


「ねぇ、サクラ…今日、港に行ってみないかい?」


 不安げな表情で、そう切りだす。


「港に?」

「スズエさんが言ってただろ? 客船で働く従業員を募集してるって。いったい、どんな仕事があるのか知っておきたいっていうか…ほら、僕は働いたことがないだろ? だから、その…じ、じつは、死ぬほど不安っていうか…不安しかないっていうか…」

「大丈夫よ、私がついてる!」


「うん…で、でもさ。とにかく、何事も早いほうがいいと思って。で。もし、その場で申し込めるなら手続きもしておこうかと…」

「そっか。そうだね。よし、港に行こう!」


 ということで、さっそく準備のため室内に戻ろうとした、そのときだった。


「よぉ、スーザン。今日もいい朝だな!」


 どこからか、アレクの声が聞こえてきたのだ。


(アレク…?)


 それは、ベランダからのぞめる〈ミニ庭園〉から聞こえてきた。

 〈ミニ庭園〉は、スズエ婦人とアレクが最初に出会った場所である。いまも朝のデートが続いているのだろうかと、サクラは何気なく下をのぞく。


 スズエ婦人とアレクは、色とりどりのバラが咲き誇る花壇の横のベンチにすわり、3階のベランダからは聞きとれないほどの小さな声で話をしていた。


(なにを話してるの…?)


 当然、サクラは気になってしかたがない。


 そのまま様子をうかがっていると、スズエ婦人はゆっくりと顔をうつむかせ、手を頭のうしろへまわし、首元での動作をしていた。


(スズエさん、なにしてるの…?)


 そしてサクラは、すぐに、その動作が、ネックレスを外す動きだと気づく。


 前日——サクラは、スズエ婦人との会話の途中、彼女の胸元できらりと光る物を見つけ「それ、素敵ね」というと、彼女は「ああ、これね…素敵でしょ」と嬉しそうにほほえみ、そのネックレスの話をしてくれたのだ。



         ***



「これも、主人の形見なのよ」

「それ十字架クロスよね? スズエさんのご主人って、もしかしてキリスト教徒クリスチャンなの?」

「いいえ、クリスチャンは私よ」

「あ…そうなんだ」

「そう。私の家は、代々プロテスタント(新教)なの。主人は『イエス・キリストなんて、ただのマゾヒストだ』って馬鹿にしてたから…けっきょく彼が入信することはなかったわ。でも、十字架をみると私を思い出すんですって。だから、このネックレスをプレゼントしたの。いつでも、私を思い出せるようにね…」


 スズエ婦人は、ネックレスについている小さな十字架をたぐりよせ、唇によせた。


「主人は亡くなるまで、肌身離さずこのネックレスをつけてたわ。で。いまは、こうして、私のもとに戻ってきた。このクロスには、きっと主人の魂が宿ってる。だからいまは私の宝物なのよ」

「へぇ…素敵なエピソードね。なんか、あこがれちゃうかも…」


 サクラは、うっとりとその話に酔いしれ、自分は〈トモヒロ〉の物をなにも身に着けていないことに一抹の寂しさを覚えながら、スズエ婦人のクロスをうらやましげに見つめたものだった。



         ***



 そして、いま――その大切なネックレスを、スズエ婦人は首から外した。


(それ、どうするの…?)


 嫌な予感が、サクラの頭をよぎる。


(まさか…)


 すると――彼女は、サクラの予想どおり、それを隣にいるアレクの首にかけたのだ。


(ちょっと、待って…)


 サクラの心臓が、‘ドクドク’と音をたてて動きはじめる。


(嘘でしょ? それはだめ…絶対にだめよ…!)


 だが、サクラはそこで思う。もしかしたら、別のネックレスなのかもしれないと。3階からでは、それがどんなネックレスかは見分けがつかなかったからだ。

 さすがに気前のいいスズエ婦人でも、ご主人の形見であり宝物である〈クロス〉を渡すはずがないと思ったのだ。


(確かめなくちゃ…!)


 サクラは、急いで室内にもどると、


「ツトム、これ、借りるよ!」

「サクラ…!?」

 ツトムから双眼鏡をひったくるようにして取り、またベランダに走ってゆく。


 〈ミニ庭園〉のふたりにピントを合わせ、レンズをのぞく、と―—丸いレンズの中のアレクは、スズエ婦人につけてもらったをしみじみとながめ、何かひとこと言葉を発し、彼女の頬にキスをした。


 そのアレクの胸元でキラリと光る物——それはまごうことなき、スズエ婦人が宝物だと言った十字架のネックレスだった。


(あいつ…)


 いったいどんな言葉で、聡明なスズエ婦人を言いくるめたのかは知らないが――これは、明らかに詐欺だ。あの男は犯罪を犯している! 恋愛詐欺師。そのイメージは、サクラの中で強固なものとなった。


(こんなこと、許されると思ってるの…!?)


 サクラの中でくすぶっていたイライラの種は、ついに明確な〈怒り〉となってサクラの心臓をゆさぶった。


 サクラは、外出の準備をしているツトムの後ろを素通りし、305号室のドアを‘ばん!’と開け、勢いよく廊下へ飛びだしていった。


「サ、サクラッ!? どこ行くのッ!?」

「あいつのところよ! 今度こそ、ぜったい許さないんだからッ!!!」

「ゆ、許さないって…な、な、な、なにをー…???」


 ツトムがあわてて廊下へ出たときには、サクラの姿はどこにもなかった。


「だ、だから…なんだよぉー…???」


 ツトムは、再びクエスチョンマークをひたいに貼りつけ、305号室のドアの前で途方に暮れることとなる。



「で、港は…?」




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