23|サクラの杞憂〈3〉

(アレク…?)


(どうして彼が、ここに…?)


 ドアチャイムを鳴らしたのがアレクと知り、条件反射的にサクラの眉間にシワがよる。


 もちろん、彼は、このホテルのレストランで働く従業員だ。ここに16年も住んでいる彼女を知っていて当然だし、お互いに知り合いだったとしてもおかしくはない。何かの用事で訪ねてくることだってあるだろう。


 このときも、アレクは、レストランの料理長に命じられ〈スフィア祭り〉で客にふるまう焼き菓子クッキーを届けに来ただけだった。


 だから、これは、もう…アレクという人物を信じきれない、サクラの主観(思い込み)でしかなかったのだが―—そしてその主観は、はからずも当たってはいたのだが―—しかし、このときサクラの中に再燃した彼への〈不信感〉は、サクラの暴走のはじまりでもあった。


 暴走は、心の目を曇らせる。


 もしも、このとき―—もう少し冷静に彼を観察することができたなら、彼が水面下でサクラたちを捕らえようとしていることを、言葉のはしばしから――あるいは、彼の行動から察知できたかもしれなかったのだ。


 アレクは、フィーン駐屯基地のケビン・ジョンソンと連絡を取り合うため、ホテルの緊急用の〈無線室〉へ頻繁ひんぱんに出入りしていたし、フロントへちょくちょく顔を出しては、ホテルマンにサクラたちの情報——サクラの容態や、これからどこへゆくのか…その予定を知っているかなどを、言葉たくみに聞きだしていたからだ。


 すでに彼は、109号室にサクラが運ばれたことと、スズエ婦人と何らかの関係があることと、さらにホテルマンがスズエ婦人に〈クルーズ船〉の案内パンフレットを渡していることを聞き出していたので、このさきのサクラたちの行動(海路で南の地へ逃走する計画)まで、すべて把握ずみだったのだ。


 その―—サクラたちの情報をかぎまわる行動こそが、じつは、もっとも〈不信〉であり、冷静にそれを察知できたなら、勘のするどいサクラのことだ、すぐ彼の悪だくみに気づき、ここを立ち去ることもできたはずだった。


 だが―—サクラは、気づかなかった。


 それはアレクと、スズエ婦人…このふたりの関係に、サクラの関心のベクトルが一気に傾いてしまったからだった。


 そして、それは、アレクとサクラの〈戦い〉のはじまりでもあった。



          ***



「まぁ、アレクだわ…!」


 ドア・チャイムが鳴った瞬間、スズエ婦人はうれいを秘めた表情を一変させ、花が咲いたような笑顔で、いそいそとドアのほうへ歩いていった。


「……?」

 サクラは、眉をひそめながら、そのうしろ姿を目で追った。

 サクラがいるリビングから、玄関先は見えず、ふたりの会話だけが聞こえてくる。


「よぉ、。今日も美しい〈お姿〉だな…」

「あら、ありがと。お世辞でもうれしいわ」

「お世辞なんかじゃねぇ。心からそう思ってる。わかってんだろ?」

「ええ、そうね…」


 アレクは、サクラの予想通り、ホストまがいの軽妙なリップ・サービスでスズエ婦人と言葉をかわす。


「これ、レストランからのプレゼントだ。〈スフィア祭り〉のクッキー。あんた好きだったろ?」

「まぁ、ありがと!」

「3つ持ってきたから、にも渡しといてくれ」


って、私とツトムのこと…?)


 サクラはそのまま、リビングでソファに座りながら聞き耳を立てる。


「あいつら、ここに居るんだろ?」

「ええ、いるわよ」

「ところで、彼女…フロントでぶっ倒れたあいつは生きてんのか?」

「やだ、当たり前よ。彼女は元気よ。今、リビングにいるけど…会っていく?」


「いや…遠慮しとく。あいつは、俺を嫌ってるからな…」

「また、そんなこと言って…」

「いや、いいんだ。どっちみち、あいつと俺との関係は終わらねぇ。そのうち、いやってほどツラをつきあわす時がくるからな…」

「なんですって…?」


「いや、こっちのことだ、気にすんな。まぁ…とにかく、彼女によろしく伝えといてくれ。ってな…」

「ええ、もちろん、伝えておくわ」

「じゃあ、またな、スーザン…愛してる…」

「私もよ、アレク…」


 スズエ婦人を〈スーザン〉と呼び、「愛してる」と甘い言葉をかけて、彼は廊下へと姿を消した。


 聡明なスズエ婦人のことだ、そんな軽いリップサービスを真に受けるほど、彼にのぼせあがっているわけではなかったのだろうが…しかし、彼が登場する前と後では、明らかに顔色に変化があり、10歳も若返ったようにサクラには感じられた。


「彼、いい男よね? サクラちゃんも、そう思うでしょ?」


 リビングに戻ってきたスズエ婦人は、アレクが持ってきた一口サイズのまんまるなクッキーを頬張りながら、頬をピンク色にそめた。


「彼、亡くなった主人に似ているの。あ…もちろん、若い時の話よ。主人も、出会った頃は、あんなふうに、ちょっとワルを気取ってるところがあったわ。そこが、またつやっぽくて大好きだったの…」

「つ、つや…?」

「セクシーってことよ」

「あ、なるほど…」


(そうか…)


(アレクは、スズエさんのご主人に似てるんだ…)


 サクラは、ふと、4Cフォーシーを思い出す。

 トモヒロにそっくりな彼に、その内面を知るまえから無条件で惹きつけられた、あの感覚を思い出していた。


「アレクは、主人じゃない。それは、わかっているんだけど、どうしても重ねてしまうの。おかしいわよね。彼とは40歳以上も離れているのに、私の中にいる〈少女〉が彼に恋してる…」

「スズエさん…」


 4Cはトモヒロじゃない。頭ではそうわかっていながらも、想いだけが‘どんどん’ふくらんでゆく感覚——自分でも制御できない想い。それが〈恋〉だ。


「でも、アレクには内緒よ」

 スズエ婦人はそういって、人差し指を口にあてた。


「もちろん、彼の『愛してる』なんて、ただの社交辞令。本気になんかしてないし、この恋が実るわけないでしょう? だから、これは片思い。でも、いいの。ずっと彼を見ていられれば、それで私は幸せなの…」


 それから、彼女はまた、愁いを秘めた瞳で、テラス越しの海をみつめた。


「私は、ここにいる…この109号室に、ずっといるの。アレクのためにね…」


(あ…)


(そうか…)


(スズエさんがいってた〈彼〉って…)


 彼女がこの場所を離れない理由——それは、アレクのそばにいたいからなのだと、そのときサクラは、やっと気づいたのだった。




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