22|サクラの杞憂〈2〉
「スズエさん、大丈夫…?」
スズエ婦人は、あわてて手のひらで涙を拭い、
「ええ、ええ、もちろん、だいじょうぶよ。嫌ね、歳をとると涙もろくて…サクラちゃんの境遇を思ったら、つい泣けてしまって…」
スズエ婦人は、悲しみを散らすように左右に首をふりながら、さらにティッシュで濡れ残っている目元や小鼻のまわりを、ていねいに拭きとりつつ、
「だめだめ、こんなことで泣いてる場合じゃないわ! こうしてる間にも、
それからスズエ婦人は、この話のながれで思い出したのか「あ…そうそう!」といって、おもむろに立ち上がると、壁ぎわのコンソールテーブル(飾りテーブル)の上に置いてあった〈パンフレット〉をとり、「サクラちゃんが寝ているあいだ、ツトム君と計画を立てていたんだけど…」と、サクラの目の前にそれを差し出した。
「サクラちゃんたちは、これで逃げたらいいと思って、ね」
「……?」
見ると、それは〈豪華客船〉の案内パンフレットだった。
―——世界があなたを待っている。選ばれし者たちの冒険の旅へ!
―——『ゴールデン・アイランド号』でゆく、世界一周クルーズ旅行!
サクラの目に飛び込んできたのは、そんな
「せ、世界一周旅行ぉぉぉーーーーーッ!?」
サクラは思わず、猫足ソファのうえでひっくり返る。
「そう、世界中を旅している船よ。2週間後に〈ポートヘルム〉に到着するわ。次に停泊するのが
「す、すごい…まさか、こんな、セレブな船に乗れるなんて…」
(さすがスズエさん…!)
(スケールの大きさが違う…!)
彼女は〈プライベート・ヘリ〉こそ持ってはいなかったが、
L=6も、まさかこんなゴージャスな船に乗って逃げるとは、思ってもいないはずだ。なにしろ、研究施設から逃走した時点で、所持金はゼロだったのだから。
すでに、サクラの頭の中では、ジェームス・キャメロン監督の映画『タイタニック』の映像が流れ、ジャックとローズが帆先で抱き合い、セリーヌ・ディオンの歌声が流れていた。
だが―—世の中、そう甘くはなかった。
‘うっとり’と妄想している時間は、たったの数秒。
直後、現実へと引きもどされる。
「でも、ひとつだけ問題があって、ね…」
スズエ婦人は、申し訳なさそうに眉をさげ、
「パスポートがないと乗れないのよ、ね…」
「パ、パスポート?」
「パスポートは市民の証。〈エムズ・ワン〉は研究施設でもれなく作ってもらえるの。でも、サクラちゃんたちは持ってないでしょ? そうかといって〈偽パスポート〉を作るなんてスパイ映画でもあるまいし…絶対に無理なの…」
スズエ婦人は、(おそらく)こういう冒険的な話題が大好きなのだろう。『星の滅亡』の話をしていたときよりも、言葉に力が入り、いたずら好きな少女のように瞳をきらきらと輝かせた。
「それで、私、考えたの。別に〈お客〉として乗らなくてもいいんじゃないかって」
「…と、いうと?」
「船に乗り込めばいいだけなんだから、働けばいいんじゃないかって!」
「は、働く?」
「そう、働くの!」
「………」
クルーズ船が停泊するたびに、船内で働く従業員の募集があるのだと、スズエ婦人はいった。
「お給料が安いかわりに、どんな素性のひとでも雇ってくれるらしいのよ。世の中、うまく出来てるわ」
「な、なるほど…」
セレブなお嬢様から、一気に日雇い労働者に転落した気分で、テンションも一気にダウンしたサクラだったが、スズエ婦人には、働くことも一種のレクレーションと思っている
もちろん、そんなことでへこたれるサクラではない。
その方法しか選択肢がないのなら、働くだけだ。
「うん、わかった。その作戦で行こう。私、働く!」
「わぁ…楽しみね! 労働者ふうに、またイメチェンしなくっちゃ…」
そこで、また、サクラは、ふと思う。
スズエ婦人は、どうするのかと。
彼女も風土病を
いままではマナーズ博士のために、ここを離れることが出来なかったのだろうが、博士が亡くなったいま、ここに居る必要はない。
だから―—当然、彼女もクルーズ船に乗って〈南〉へゆくのだろうとサクラは思い、そのつもりで言葉をつづけた。
「でも、スズエさんは働かなくていいんだからね? パスポートを持ってるんだから、ちゃんとお客様として乗るのよ?」
労働をレクレーションと思っているスズエ婦人のことだ、「私も働く!」と言いかねなかったので、サクラはそういって彼女の暴走を止めようしたのだが、次に彼女が発した言葉は、思いもよらない言葉だった。
「大丈夫、働いたりしないわよ。だって、そもそも乗らないんですから、ね」
「…え? の、乗らないの?」
「ええ。クルーズ船に乗るのは、サクラちゃんとツトム君だけ…」
「じゃ…スズエさんは、どうするの?」
「どうって…?」
「スズエさんも、南へ行くんでしょ?」
「いいえ、行かないわ」
スズエ婦人は、きっぱりと言い切った。
「スズエさん…」
サクラは、そのとき―—また、彼女の中に、〈愁い〉とも〈悲哀〉とも取れるような複雑な感情が浮かび上がるのを見た。
(あのときと、同じだ…)
(バスルームの時と、同じ表情を…)
風土病があるにもかかわらず、「自分のことはどうでもいい」とばかりに、サクラの質問を拒絶し、すっかりはぐらかされてしまった―—そのときと同じ〈絶望〉を見せまいとする
そしてまた、彼女は、テラス越しの海に目線をうつし、目を細めて小さくつぶやく。
「私は、ここに居る。この109号室に、ずっといるの」
「でも、風土病が…」
「治らなくても、いいの。私は、ここにいなければいけないの。彼のためにね…」
「彼って…博士のこと? でも、博士は…もう…」
(亡くなった…)
その言葉を言いあぐねているサクラへ、スズエ婦人はいった。
「違うの。彼は…博士より、もっと大切なひとよ…」
「大切なひと? そ、それは…誰?」
「それは、ね…」
と、そのとき―—ドア・チャイムが鳴って、扉を‘とんとん’と叩く者がいた。
「おい、スーザン、いるか? 俺だ、アレクだ…」
その声は、アレクだった。
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