21|サクラの杞憂〈1〉

 小川寿々江おがわ すずえがアナザーワールドへあらわれたのは、17年前――最愛の夫を亡くし、孤独の中で「このまま海に身を投げてしまおうか…」と思っていた矢先の出来事だった。


 サクラと同じ〈23ゲート〉――当時はゴースターが開けた〈大穴〉などない、ただの殺風景な空間だ――そこへ姿をあらわした彼女は、気づくと、夫が気に入っていたジバンシーのワンピースに身を包み、夫にプレゼントされたエルメスのハンドバッグを持っていた。


 そのバッグがやけに重いので開けてみると、そこには大小さまざまな〈ダイヤモンド〉が、ぎっしりと詰め込まれていたのだ。


 それは、宝石商を営んでいた夫の財産だった。


 こちらの世界に持ち込んだ私物は、一旦〈エムズ管理科〉で保管され、3ヶ月後――細かな手続きを終え返却された時点で、小川寿々江は、こちらの世界でもセレブとなった。


 それから1年後――旅行先でマナーズ博士と知り合い、彼がエムズのために世界中をまわって〈向こうの世界へつながる場所〉を探していることを知り、彼女は彼の協力者となることを決意したのだ。


 それから彼女は、拠点となる場所――シーサイド・パレスホテルを見つけ、博士がいつでも立ち寄れるよう、ずっとそこに住み続けていた。



          ***



「もう、16年になるわ…」


 窓の外から、さざ波の音がきこえるリビングルームで、食後の紅茶ローズティを飲みながら、スズエ婦人は窓の外に目をむけた。


「この窓から見える景色は、私と夫が住んでいた逗子ずしの港に似てるの。この景色を見た瞬間…ここに住もうと決めたのよ」


「たしかに、きれいな景色ね…」


 サクラは、スズエ婦人の目線をなぞり、テラスの先に広がる青い海と、白い港をながめ、こんなに美しい場所だったら16年暮しても飽きないのだろうと思いながら、彼女と同じバラの香りがただよう〈お上品〉な紅茶をぎこちなくすすった。


 金色の猫足ソファーにもぞもぞと座りながら、バラ模様のティーカップを大理石のローテーブルにそっと置く。


 じつはサクラは、朝食を食べているときからずっと、エリザベス女王のアフタヌーン・ティタイムに〈お呼ばれ〉したような気分で、‘そわそわ’と落ち着かなかったのだ。


 こういうラグジュアリー感ただよう空間では、紅茶をすするよりモップと雑巾を片手に、世話しなく動き回っているほうが性にあっているサクラなので、どうしても体が勝手に‘もぞもぞ’してしまうのだ。


 ツトムも、居心地が悪いのか――あるいは、孤独ひとりが好きなだけかもしれなかったが――博士が残した文献(資料)が詰まった書斎のようなウォークイン・クロゼットの中に、とっくに引きこもってしまっていた。


「マナーズ博士も、よくそこのテラスで海を見てたわ…」


 スズエ婦人はサクラの‘もぞもぞ’に気づいているのか、いないのか…とくに気にする様子もなく、港のほうへ視線を向けながら会話をつづける。


「彼は、いつも言ってた…」


『 スズエさん。あなたも、向こうへつながる〈扉〉が見つかったら、いつかは向こうの世界へ帰らなければなりませんよ。望むと望まざるとにかかわらず、ね 』


「私たちエムズに『帰る』『帰らない』の選択肢はないそうよ。みんな帰らなければいけないんですって。私はきいたわ。『どうして帰らなければいけないの?』って。そうしたら、彼は言った…」


『 それはね、スズエさん。近い未来に、この星がです 』


「とても悲しい顔で、そういったの…」

「め、滅亡…?」

 サクラは、その、あまりにも現実ばなれした言葉に、映画のストーリーを聞いているかのような反応しか返せなかった。


「ええ、そうなんですって…」

 スズエ婦人も、サクラ同様、どこか他人事のように言葉を返した。


「簡単には信じられないわよね。だって、こんなに世界は平和なのよ? 当時は私も、博士の妄想としか思えなかったわ」

「………」

「でも、最近、世界のどこかで〈黒い霧〉がふりそそいで、あっという間に大都市が消滅したという話を聞いたわ。

 〈黒い霧〉はとつぜん、どこからか発生して、世界をあっという間に暗闇に変える――それは、確かに、世界の終わりを予感させる出来事よ。宇宙物理学者の彼がいうことは正しいの。きっと、それが真実…」


 そういって彼女は、うれいを秘めた目もとを細め、ため息をついた。


「たしかに、そうね…」

 サクラは、その横顔を見つめながら、L=6エル・シックスの言葉を思い出していた。


 研究施設の独房のまえで。

 ラボのスピーチで。

 彼女は、たしかに、この星の未来が、危機にひんしていると言ったのだ。


『 私たちの〈目的〉は、もっと壮大で、ロマンチックで、世の中のためになることよ 』


『 我々は急がなければなりません。みなさん…人道的かどうかを議論するまえに、この事実と、そして、この星が抱える〈危機的状況〉を加味したうえで議論していただきたい。この世界なくして、倫理も道徳も有りはしないのです 』


 そもそも〈アルファ・プロジェクト〉とは、そのための人体実験だ。

 自分とゴ―スターを一体化させる試み…。


 それで、どうやってこの星の危機を救うのかは、いまだに謎ではあるのだが、L=6が抱えている焦燥感や使命感――それがどんなに倫理に反し、狂気に満ちた使命であったとしても――彼女の中にある「急がなければならない」「やり遂げなければならない」という強い意志は〈本物〉だったとサクラは思う。


(だから、きっと、マナーズ博士の言葉は真実…)


(この世界は滅亡するんだ…)


 だが――それが真実だと思ってみたところで、サクラの心は動かなかった。

 アルファ・プロジェクトに力を貸すつもりもなかったし、自分にそれを阻止する能力があったところで、向こうの世界へ帰れるわけではない。


 サクラの希望は、向こうの世界へ帰ること。ただ、それだけだ。マナーズ博士のいうように、この世界が終わるなら、終わる前に向こうの世界へ帰る手立てを考えるだけ…。


(この星の未来なんて、私には関係ない…)


(私は、帰りたいだけ…)


(向こうの世界に置いてきた〈トモヒロ〉に会いたいだけ…)


(本当に、ただ、それだけ…)


(だから…)


「だから…サクラちゃんは、この星が滅亡するまえに、向こうの世界へ帰りなさい。ぜったい、にいてはダメ…」

 サクラの頭の中を読んだかのようなタイミングで、スズエ婦人がサクラに告げる。


「ケータイがつながる場所――〈コスモ・スポット〉には研究所があるの。もしかしたら、博士の意志をついだ研究員たちが、すでに向こうへ通じる〈扉〉を発見しているかもしれないわ」

「コスモ・スポット?」

「そう。〈宇宙のゆらぎ〉を感知した場所を、そう呼ぶのよ」

「へぇ、そうなんだ…」


 その目新しい単語に、サクラの心は引きよせられた。


 サクラは、その、いかにもSFな言葉のひびきに、SF映画に出てくる近未来的な研究所を頭の中に思い描く。


 広大な敷地の中に建つ、コンクリートブロックで出来た巨大な箱のような研究所――その中では、様々なコンピューターが起動し、色とりどりの光が踊っている。

 そして、その空間の中央にはキラキラと輝くアーチ状のゲートがあり、そこへ足を踏み入れた瞬間〈光〉につつまれ、あっという間に別の次元へワープする。そんなイメージだ。


「私…本当に、帰れるのかな…?」

 サクラは、自分の心臓が‘ドキドキ’と高鳴りはじめたことを自覚する。


「帰るのよ…」

 スズエ婦人は、力強くそういって、かたわらに座るサクラの手を力強く握りしめた。


 見ると、なぜか彼女は美しい鈍色にびいろの瞳をぬらし、そっと静かに泣いていた。


(スズエさん…?)


 その涙の意味を、サクラはまだ知らなかった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る