第一部「ポートヘルム・編」

12|糸杉の森のかげ〈1〉

 サクラとツトムは、深い森の中を歩いていた。


 軍用ボートが壊れ、ゴースターの助けで北の大陸の岸壁へと降りたったふたりは、ろくな休憩もとらず森の中へと歩きはじめた。


 気を失ったツトムが、目を覚ましたのは30分後――まだ太陽は頭上にあり、すぐに出発すれば、明るいうちに民家のあるふもとまでたどり着けるはずだと思ったからだ。


 それには深刻な理由があった。


 軍用ボートに積んであった食料はすべて海のもくずとなり、いま、サクラたちに残されているのは、ツトムのバックパックに入っていたペットボトルの水が1本…それだけだったのだ。


 なんとしても暗くなるまえに森をぬけて、食料を調達する必要があった。

 それが当面の目標だ。


 さいわい、この世界で使われている現金――日本円にして10万円分ぐらいの紙幣は、軍用ボートの荷物入れで見つけ、いまはツトムのバックパックの中に入っている。当面はそれで食いつなぐ予定だった。


 サクラたちが探している〈マナーズ博士の友達〉が見つかれば、その人物をたよることもできるのだろうが…それはまだ、先の話だ。


 いまは、なにも考えず、ただ、ひたすら急いで歩くこと――それがいまのふたりにでいる、ただひとつのことだった。


「ツトム、大丈夫?」

「ああ…なんとかね」


 サクラも、ツトムも、睡眠不足と、空腹と、蓄積された疲労で、歩くスピードも遅い。


「サクラは、大丈夫かい?」

「なんとかね。でも、足が棒みたい…」

「それは、僕もだよ。でも、がんばって歩かなくちゃ。こんな不気味な森で一夜を過ごすなんて、悪夢をみるより悪夢だ…」

「うん、わかってる…」


 サクラたちが歩いている森は、ところどころに糸杉が群生する、鬱葱うっそうとした昼なお暗い森だった。


 樹齢100年は経っているであろう高木は遥か頭上までのび、生い茂る枝葉えだはは太陽をさえぎって、サクラたちを闇の中に閉じこめているかのようだ。


 ところどころにうずくまる茂みの暗がりからは、なんの動物かもわからない光る目が、じっとこちらをうかがっているようにも見える。


 まるで、その森すべてがひとつの生き物で、ひとつの意思があり、じっとサクラたちを監視しているかのような…なんとも不気味で居心地のわるい感覚がサクラたちにまとわりつく。


「とにかく急ごう、サクラ…」

「うん…」


『 早くこの森を抜けなければ、なにか、よくないことが起きる 』


 サクラの第六感も、そう告げる。


(急がなくちゃ…)


(急いで、この森を抜けなくちゃ…)


 頭上をとおりすぎる風が、さわさわと梢をゆらし、そのざわめきは、まるで森のささやきのようだった。


‘ おまえを見てる… ’ おまえを見てる…


‘ 影が見てる… ’ 影が見てる…


‘ 死が…おまえをとりまいている… ’ 死が……


「………」

 サクラは、油断なく、目線をあちこちにさまよわせ、不安な気持ちを落ち着かせながら黙々と歩きつづけた。



          ***



 ほどなくして――サクラたちは渓谷を見つけた。


 この森の中心には、巨人がオノで叩き割ったような、するどく切り立った渓谷があるのだ。ふたりは、いま、その渓谷の崖にそってくだっているところだった。

 はるか下には川がながれ、その川に沿って歩いてゆけば、ふもとにたどりつくはずだったが、鬱葱とした木々に隠れて、それはまだ見えない。


 気づけば、木々のあいだからのぞく太陽の光はやわらぎ、もうすぐ夕暮れが訪れるのだとサクラたちに教えた。


 急がなければならなかったが、思うように足は動かず、気持ちだけがあせりはじめる。


「サクラ、気をつけて。この辺、コケが生えてて滑りやすいよ…」


 サクラの数歩まえを歩くツトムが、ふり返って声をかける。

 いま、歩いている道は、少し崖のほうへかたむいており、油断すると足をとられて、崖の下へ転落する危険もあった。


「うん…気をつける…」

 サクラは、慎重に、一歩ずつ、一歩ずつ…歩をすすめてゆく。


 じつは、サクラは、ずっと軽い〈めまい〉の症状に悩まされていた。

 そもそも三半規管が弱いせいもあるのだが、睡眠不足、疲れ、過度のストレスがかかると、とたんに‘クラクラ’としてくるのだ。ホテルで働いているときもそうで…それは、体が悲鳴をあげている証拠だった。


 それを治す方法はひとつしかない。

 栄養のあるものを食べて、ひたすら寝ることだ。


 だが――いまは、それも叶わない…。


(急がなくちゃ…)


(急いで、この森を抜けなくちゃ…)


 あせる気持ちだけが、からまわる。


「サクラ、急ごう。もうすぐ陽が落ちるよ…」

「うん、わかってる…」


 ツトムも考えていることはサクラと同じだ。この森で一夜を過ごす恐怖を思えば、自然と歩くスピードも速くなる。サクラはツトムのスピードに追いつこうと、必死に歩いた。だが、足は思うように動かず…。


「ツ、ツトム、ちょっとまって…私、いま、そんなに早く歩け、な…」


 と、そのときだった。

 サクラは、いままでにないほどの激しいめまいに襲われ、視界が‘ぐらり’とゆれたかと思うと、足元がくずれ、コケの生える地面に足をとられた。



「あ…!」

「あぶないッ、サクラ…!」


 ツトムは、とっさに、よろけて崖のほうへ傾くサクラの腕をつかみ、崖の下へ転落するという最悪の事態は防げたのだったが…。


 よろけた拍子に、足もとにころがっていた〈石ころ〉をけとばしてしまい、派手な音をたてて谷底へと落下し、その音におどろいた山鳥が数羽、糸杉の梢からばさばさと飛び立っていった。


 と――つぎの瞬間だった。


‘ パァーン… ’と、どこかで爆竹が鳴ったような爆発音がきこえ、サクラたちは思わず硬直する。


「ツトム…いまの、なに?」

「な、なんだろう?」

 ふたりが顔を見合わせた、そのとき――頭上からがふってきた。


「うわぁ…!」

 みると、ふたりの足元にころがっていたのは、銃で胴体を撃ちぬかれた山鳥の死骸だった。


「うそ…これ、どういうこと…?」

 サクラの背中に、嫌な汗がじわりとふきだす。


 そしてまた――間髪をいれずに‘ パァーン… ’と音がしたかと思うと、今度はツトムのひたいを銃弾がかすめた!


「ヒッ…」

 ツトムのひたいの真横に、赤い線を引いたような血が、じわりとにじむ。


「ツトム、危ないッ! しゃがんでッ!」

 ふたりは、そばに立っていた糸杉の陰にかくれ、渓谷の反対側から、こちらを狙うからとっさに身をかくす。そう――それは、複数の〈何者か〉だった。

 ツトムは、目の前にころがる山鳥の死骸を凝視しながら、絶望的な声でつぶやく。


「もしかして…僕たち、狙われてる…?」

「………」


 サクラは、その問いには答えず、目をみひらいたまま糸杉の幹にもたれかかり、なぜか唐突に、中学時代のワンシーンを思い出していた。



          ***



「ねぇ、咲良さくら、みてみて。この〈糸杉〉の花言葉ってやばくない?」


 図書室で、友だちが『花言葉集』を見つけて、サクラに見せる。


「花言葉? 糸杉って樹でしょ? 樹なのに花言葉があるってヘンじゃない?」

「あるんだってば。ほら、みて。マジ、やばいでしょ?」

「げッ、本当だ。マジ、やばーい」


 その――あまりにもマイナーでネガティブな花言葉に、図書室の片隅で友だちと笑いころげ、先生に「静かにしなさい」と怒られた。そんな、他愛のない過去のワンシーン…。


 その花言葉は――『 死・哀悼・絶望 』


 しくも、その言葉は、サクラの未来を暗示していた。




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