4

 暗闇の中で必死にもがき、なにかを掴もうと手を伸ばす。セシリアは自分の意識を強引に覚醒させた。


「うっ」


 思わず小さく呻き声を漏らし、全身を縛られている感覚に顔を歪める。


「あら、お目覚め? やっぱりあなた普通じゃないのね。丸一日は眠りから覚めない薬なのに。まだ十分程度よ」


 声が降ってくる。実際にセシリアの体は縛られていなかった。しかし体が思うように動かせず、這いつくばった姿勢で目線を上に向ける。


 吐き気を伴い、苦痛で眉をひそめる。声を出すのがやっとだった。


「ドリス、を放して。ドリス!」


 ドリスは椅子に座らされ、目は開いているものの焦点が定まっていない。セシリアの呼びかけにもまったく反応を見せない。


 その隣で瀉血の準備をしていたテレサが哀れみを含んだ目でセシリアを見下ろす。


「無駄よ。彼女の意識はヴェターの影響でおぼろげなの。よほど大きな衝撃やショックを与えない限り、正気には戻らないわ」


 そう言ってテレサは注射針を肘掛けに置かれているドリスの腕に近づける。裾は捲り上げられ、ドリスの白い肌が露出していた。


「先生、やめてください!」


「これは彼女が望んだことなのよ」


 違う!


 叫びたいのに声を出すのも辛い。セシリアは歯を食いしばって自分を奮い立たせる。 


 しっかりしろ!


 セシリアは体に力を込め、ゆるやかに身を起こし立ち上がろうとする。さすがにテレサは手を止め、驚いた面持ちでセシリアを見つめた。


「なんてこと」


「彼女を、離して」


 セシリアは裾に隠していたナイフを右手に滑らせて構える。ところが手に力が入らない。それはテレサから見ても明らかだった。


「やめなさい。彼女に当てる気?」


 テレサはわざとドリスに身を寄せた。テレサの言い分はもっともだ。セシリアも正直、この状態でうまく当てられる自信もない。しかもチャンスは一回だ。


 失敗すれば今度はどんな薬で眠らされるか。ドリスの身もどうなるかわからない。


 ドリスになにかあればエルザはきっと悲しむ。そうなればルディガーだって……。


『それにしても私たち同士ね。片思いをしていて、さらにお姉ちゃんたちが上手くいくようにって願っていて。そうでしょ?』


 守ると決めた。同じてつは踏まない。


 荒い息をぐっと飲み込み、セシリアは全神経を手先に集中させる。彼女の瞳はもう揺れない。ドリスに注射針を当てているテレサもさすがに緊迫めいた表情になる。


『先を見越して、相手の動きを予想して投げるんだ』


 ――兄さん。


 セシリアの手から渾身の力が込められたナイフが飛んだ。それはテレサにも、ましてやドリスにも届かない。まったく見当違いの方向に飛んでいき、テレサは訝し気な顔になる。


「どこを狙って……」


 ナイフの行方を追ったテレサは大きく目を見張った。ナイフは倉庫の棚に並べてあった樽に刺さっている。そして次の瞬間、大きな音を立て、樽が破裂した。


 発酵が進んだ樽の中では膨張した空気が充満していた。それが外へと一気に勢いよく抜けていく。


「なっ」


 ひとつの樽が爆発し、上に重ねていた樽がバランスを崩し床に落ちる。衝撃で他の樽も連鎖し、けたたましい音と匂いが倉庫内に広がっていく。


 ワイン作りの発酵過程では樽の内部の空気が膨張するため、ある程度余裕を持って中身を入れておくものを、テレサは液体で満たしていると言っていた。


『雑菌が入らないように中身をいっぱい入れているけれど、一つひとつは小さい樽を使っているから』


 おそらくいくつかの樽にはワインではないものが入っている。それをカモフラージュするためワインを作ったのだ。


 前者は充満させても平気かもしれないがワインはそうはいかない。


「えっ、え!?」


 衝撃音と刺激臭でドリスの意識が戻る。訳がわからない彼女は本能的に外へ出ようとした。それにテレサも続く。


 よかった。


 ふたりを見届けセシリアはその場に再び倒れ込む。力を出し切った後で、筋肉は弛緩しかんし立つのも難しい。満身創痍まんしんそういの状態で意識も朦朧としてきた。


 続けて割れた樽から流れ出たのは、ワインではない。赤い雨。錆びた鉄の匂いにむせ返しそうになる。萎れたベテーレンの花と共に床が赤く染まっていった。


 赤黒く変色した血がセシリアの指先が触れる。


 ドリスが無事なら、それでいい。後はあの人が幸せになってくれさえすれば――。


 ついに棚自体がバランスを崩し、セシリアを襲うように倒れ込もうとした。セシリアは動けず、ゆっくりと目を閉じる。


「シリー!」


 怒涛の勢いで棚が倒れ、すぐそばでなにかが割れた音が鼓膜を刺激する。一瞬だけ聞こえた耳慣れた声は幻聴か。


 次にセシリアは違和感を抱いた。視界は真っ暗なのに予想していた痛みもない。そもそも、どうしてこんなに温かい?


 おそるおそる目を開けると信じられない状況に自分はいた。


「大、丈夫か?」


 表情は読めないが、耳元で苦しげに囁かれる。ルディガーがセシリアを庇うように覆いかぶさっていた。


 すぐに事態が把握できなかったセシリアだが、ルディガーはかまわずに彼女をさらにきつく抱きしめて自分に密着させた。


 なん、で? どうして?


 声を発するどころか息もできず、ワインと血の香りは不快感しかない。目の奥が熱くなり、遠くなる意識に必死に抵抗するもセシリアの視界は真っ暗になった。

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