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「シリー!」


 はっきりと脳に響く声で名前を呼ばれ、セシリアは勢いよく目を見開く。顔を上げると、辺りが薄暗くなったと認識する前に至近距離で、ある人物が視界に入る。


「大丈夫か?」


 自分は夢を見ているのかもしれない。考えを打ち消すのは、切羽詰まった表情で頬に触れてくる手の温かさだ。


 セシリアの目の前にはルディガーが腰を落とし、眉を曇らせて心配そうにしていた。


「どこか体調でも悪いのか? 怪我は?」


 矢継ぎ早の質問に現状を徐々に理解し、セシリアはぎこちなく首を横に振る。


「ベティからセシリアが外に行ったきり戻って来ないと聞いて……」


 そういえば祖母に行き先も告げずふらっと出てきたのを思い出す。かなりの時間をここで過ごしたようだ。


「ごめん、なさい。ちょっとウトウトしちゃって……」


 うつむき気味になり、早口に言い訳する。この年で、子どもみたいな心配をかけたのが申し訳ない。


「無事ならいいんだ。本当によかった」


 セシリアの頬を撫で、ルディガーが安堵の息を漏らす。居た堪れなさを感じつつセシリアはようやく彼に視線を向けた。


 目が合うと、ルディガーの顔が今にも泣き出しそうなものになる。苦しくて、セシリアは自然と再び謝罪の言葉を口にしようとした。


 だが、その前にルディガーが力強くセシリアを抱きしめた。回された腕はきつくて、息も詰まるほどだ。突然の彼の行動に眉をひそめるも、相手の表情を窺うのもできない。


「……ルディガー、痛い」


 思わず声にするとルディガーはゆるゆるとセシリアを解放し、彼女のおでこに自分の額を合わせた。そして切なげな色を顔に浮かべておもむろに尋ねる。


「泣くほどに?」


 セシリアの瞳孔が拡大し、瞬きも呼吸さえもできずに固まる。少し間を空け、セシリアはぽつりと呟いた。


「……うん……痛いの」


 自分の発言が引き金となり一瞬にして視界が滲む。体の奥底からなにかが一気に込み上げてくる。続けられた声はよれよれで心許ない。


「っ、あなたが、強く抱きしめるから……。私っ」


 喉の奥がぎゅっと締まり、最後は声にならない。ルディガーは再びセシリアを包み込む形で抱きしめ直した。


 さっきよりも力は幾分か優しいが、それでもセシリアの言い訳になるほどには十分にしっかりとだった。


 ルディガーの肩口に顔を押し当て、セシリアは声を押し殺して涙が出るのを静かに受け入れる。悲しみだけじゃない。


 様々な感情が溢れ返って、胸の中はもうぐちゃぐちゃだ。セドリックとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。


 最後に交わしたのはどんな言葉だった? 兄はどういった表情していた?


 ……彼は、兄の最期を見届けたんだろうか。


 わずかにセシリアが身動ぎするとルディガーが腕の力を緩める。今、自分がどんな顔をしているのかなどかまいもせず、セシリアはルディガーを見つめて問いかけた。


「あなたこそ……痛くないの?」


 ルディガーが虚をつかれた顔になる。わずかな沈黙が走り、彼は端正な顔を歪めた。


「痛いよ」


 本当に堪えているといった感じだった。声も、表情も。それでもルディガーは口の端を上げて無理やり笑おうと試みる。


 けれど、セシリアの灰色がかった青い瞳がなにもかもを見透かすかのごとくまっすぐで、かぶろうとした仮面はすぐに崩れた。


 濃褐色の虹彩が揺れ、彼は声を詰まらせる。そしてセシリアの視界から自分を消すように、強引に彼女を腕の中に閉じ込めた。


 セシリアはなにも言わずにルディガーからの抱擁を受け入れる。


「ごめん、ごめんな。シリー」 


 しばらくして耳元で囁かれたのは、震えた声での謝罪だった。宥めるよりも懺悔に近い。


 この期に及んでも、ルディガーが気にするのは自分のことなのだと思うと胸が張り裂けそうになった。彼だって十分に辛くて痛いはずなのに。


 謝らないで。


 伝えたいのに上手く声にできない。止まっていた涙がセシリアの頬をまた滑り落ちていく。


『ああ見えて、あいつの方が難しかったりするんだよ』


 あのときのセドリックの発言がようやく少しだけ理解できた。


 取り繕うのばかりが上手くて、けっして本心には触れさせない。周りを見すぎているせいで、素直に自分の気持ちや感情も出さない。それが彼の当たり前になっていく。


 やるせなさを抱き、セシリアはおそるおそるルディガーの背中に腕を回した。


『お前が割り切れるなら、これからもあいつのそばにいてやれ。ルディガーがお前を必要とする日が必ずやってくるから』


 私が守る。私がそばにいる。兄さんの代わりにあなたを支えるから。


 胸の奥になにかが灯る。強く揺るぎのない決意をしたセシリアにもう迷いはなかった。


 その日を境にルディガーは空いた時間にセシリアの様子をよく見に来るようになった。彼の前で泣いたのもあるのかもしれない。


 余計な心配をかけるのは申し訳なく思いつつも彼に会うとセシリアの心は落ち着いた。


 限られた自由な時間を自分よりも婚約者のために使うべきなのではないかとも思ったが、そこまでは踏み込めない。


 幼い頃、なかなか帰って来ない父の不満をルディガーに漏らしたことがある。寂しくて、母が可哀相だと嘆くとルディガーは笑ってセシリアの頭を撫でた。


『きっと結婚したら、俺も奥さんを待たせてばかりなんだろうな』


 そのときは、彼に婚約者がいるとは思ってもみなかった。夜警団に入るのを志しているルディガーは純粋に父と似た境遇になるのだろうと理解できたが。


『でも帰る場所があるのは幸せだよ。シリーやシリーのお母さんが家で待っているから、師匠せんせいもなにがあっても帰って来ようって思えるんじゃないかな?』


 優しく諭され、そういうものなのかと渋々頷く。なぜかルディガーの話は昔から素直に聞けた。


『シリーの家族は俺の理想だよ』


 そんなふうに言ってもらえて、沈んでいた気持ちはあっというまに浮上する。いくらか父や母が誇らしくなった。


 そして、たとえ苦労や寂しさがあってもルディガーと結婚する相手は幼心にも幸せだと思えた。


 そう伝えたかったのに、間もなく母が亡くなりこの話題はふたりの間で出る機会はなかった。


 ルディガーはどんな人と結婚し、家庭を築くのか。エルザなら間違いなく彼の理想に適う相手だ。わかっているからつらかった。


 ところが、しばらくしてルディガーがエルザと婚約を解消した話を父から祖母を通して聞いた。なんでも彼女に他に好きな相手ができたのだという。


 元々、婚約話も親同士が知り合いだからまとまった話で絶対のものでもなかった。

 しかし結果としてルディガーは振られた形になる。セシリアは動揺する一方で責任も感じていた。彼の貴重な時間をエルザではなく自分に割いたせいではないかと。


 仮にそうだとしても、ルディガーがセシリアのせいと言うはずもない。以前のセシリアならルディガーの婚約解消を喜んだかもしれないが、今はそんな気持ちにはなれない。


 彼に対しどうこうしようとも、もう思わない。セシリアには大きな目標ができ、今はそちらで頭がいっぱいだった。

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