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「どうした? 珈琲は嫌いか?」
一切カップに手をつけないセシリアにジェイドが問いかけた。この国では珈琲をあまり飲む習慣はない。どちらかといえば、薬用的に摂取する印象だ。
医師のジェイドが好むのも理解できる。けれどセシリアがカップに口をつけないのは嗜好の問題ではない。
「……まだ、あなたがどこで私を知ったのか話していただいていませんから」
セシリアの返答に、やはりジェイドは笑った。
「なかなか警戒心が強いな。いい心構えだ」
そこで珈琲を啜ったジェイドが、答えではなく逆にセシリアに尋ねる。
「セドリックは元気か?」
その名を耳にしたとき、セシリアの感情が今日初めて振れた。大きく目を見開き、アイスブルーの瞳でジェイドを見つめる。
「俺はお前を直接は知らないが、お前の兄貴からお前の話を聞いていたんだ。もうかれこれ十年前になるがな。さすが兄妹だ。目元がよく似ている」
セシリアはぐっと唇を噛みしめてジェイドを見つめる。ジェイドはソファから腰を浮かし隣の診察スペースに足を向けると、棚の奥から古い紙の束を取り出した。それを持って戻ってくる。
「信じられないって顔をしてるな。ほらっ」
セシリアの前に置かれた紙の束は、かなりの年月を経て色もくすみ文字もかすんでいる。そこに見慣れた文字を見つけた。
“
間違いない、忘れもしない。セシリアにとっては懐かしい、几帳面さがよく表れている兄の筆跡だ。セシリアはジェイドに視線を戻す。
「あなたは……」
「俺はな、親父から医学を受け継いだんだが、その際に少しだけあいつも一緒だったんだ。親父のところに頼み込んできたらしい。物好きにも程があるが自分は将来、支える側の人間になるから医学の知識が必要なんだってな」
『支える側の人間になる』
よく兄が口にしていた台詞にセシリアは胸が温かくなるのと同時に痛みも覚えた。だから言葉にするのを少しだけ躊躇った。
「……兄は亡くなりました。」
静かに告げると、辺りは一瞬の静寂が包んだ。ジェイドは複雑そうな顔で頭を掻き、しばし言葉を失う。動揺しているのが伝わってきた。
「それは気の毒なことを聞いたな。そうか……そうだったのか。俺はあいつと別れてからすぐにここを離れて、他国で医療についてあれこれ学んでいたから。帰ってきてからもてっきり夜警団でやっているのだと……」
「もう八年も前になります。前国王のときに緊張状態にあった南国境沿いに隣接するローハイト国との戦で」
そこでセシリアは口をつぐむ。感傷に浸ったわけでもなくこの場ではこれ以上の情報は必要ない。
代わりにジェイドは宙を見つめ、改めてセドリックとの思い出を語りだす。
「セドリックは変わった奴だった。父親がアードラーだってのに自分から副官を志す男だったからな」
「兄は自分が上に立つより支える方が性に合っていると早い段階で思っていたようです」
つられてセシリアも付け足した。
四つ年上の兄、セドリックはセシリアにとって心許せる大好きな存在だった。細く柔らかなプラチナブロンドのセシリアの髪とは対照的に、兄は落ち着いた色合いのダークブロンドの髪でやや癖もあった。
跳ねている髪先を見ては、もう少しきちっとすれば、それなりに女性にもモテるし威厳も出るだろうにと妹の立場として何度も口にした。
責めているわけではなく、兄はもっとできる人間だと周りにわかって欲しいもどかしさからだった。口をすぼめるセシリアに対し、セドリックはいつも頼りなさげに笑ってそんな妹の頭を優しく撫でた。
セドリックとセシリアの父ヴァンは、前アードラーであり厳格で甘えを許さない性格だった。
父が嫌いではなかったし尊敬もしていたが、どうしても父親というよりアードラーという立場が先に立ち、セシリアとしては素直に甘えられる存在ではなかった。
五つのときに母を亡くし主に祖母に育てられたが、祖母もどちらかと言えば厳しい人だった。さすがは父の母というべきか。
自然と穏やかで冗談もよく言う兄はセシリアにとって一番の拠り所だった。
『なんで兄さんは、アードラーにならないの?』
ふと遠い昔に交わした兄との会話を思い出す。
セドリックが、自分はアルノー夜警団に入団してもアードラーにはならず、幼馴染みのスヴェンやルディガーを支える役目を担っていくと告げたときは、妹のセシリアとしてはすんなりと納得できなかった。
たしかに兄は一見、頼りなさそうな雰囲気かもしれないが、剣の腕は幼馴染みのスヴェンやルディガーとそう差異はない。そこは父親のお墨付きだ。なにより父が現アードラーであるのに。
早口で続けるとセドリックは眉尻を下げ、セシリアと同じ穏やかな青色の瞳を細めて激昂する妹を宥めた。
『だから、だよ。実力主義とはいえ、肉親が跡を継いだらあれこれ勘繰られたり、不信感を抱く者も出てくるだろ? 組織として不安要素は極力なくしておきたいんだ』
そこは父も同意見なのか、スヴェンやルディガーという剣の才を持つ者が他にいるからなのか。自分の息子にアードラーを継がせる気はないらしく、セドリックの意志に反発しているのはセシリアだけだったりする。
『でも……』
『いいんだ、俺は支える側の人間になる。むしろそっちが向いているんだ』
まだ物言いたげな妹の頭を撫で、セドリックは強く言いきった。
『スヴェンとルディガーは剣の腕は確かなうえ、性格は対照的だからアードラーとして夜警団の上に立つのにバランスもいい』
セドリックは自分の判断に誇らしげだ。遠い未来を見据えた強い意志を瞳に宿す。
『あのふたりを支えていくよ。とくにルディガーはね』
『逆、じゃないの?』
セシリアは素朴な疑問を口にする。支えが必要なのは、どちらかといえば常に人に囲まれ、慕われているルディガーよりも無愛想なスヴェンの方な気がした。
『ああ見えて、意外とルディガーの方が難しかったりするんだよ』
セドリックは軽く肩をすくめた。抽象的な言い方にセシリアは意味が理解できない。疎外感とでもいうのか、自分には入り込めそうもない彼らの関係に少しだけ嫉妬する。
いつかわかる日が来るのか。期待と不安の入り混じる感情をセシリアは胸にしまい、それ以降彼女は兄の決意に口出ししなかった。
「で、妹のお前がセドリックの代わりにアードラーの副官をしているのか」
不意にかけられたジェイドの言葉で我に返る。セシリアはなにも答えなかった。湯気が消え、すっかりぬるくなった珈琲を見つめる。肯定も否定もしない。
「あの人の副官をしているのは私自身の意志ですよ」
それだけを声にし、ようやくカップに手をつけた。苦い液体が舌を滑り、喉を潤していく。続いてジェイドを見据え、話題を戻した。
「それで、あなたの見立ては?」
ドュンケルの森の不審死とアスモデウスの噂の関連性についてだ。ジェイドの茶目っ気は鳴りを潜め、彼は複雑な表情を浮かべている。
「これは勘だが……彼女の死が持病によるものではなく、なにか他に原因があったのだとしたら……おそらくまた犠牲者が出る。嫌な予感がするんだ。だからお前も調べているんだろ?」
セシリアはカップを持つ手に力を込め、静かに視線を落とした。
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