3
ひとしきり様々な話題を拾って話を聞き、セシリアは会場の外に出た。中庭に面した廊下の手すりに体を預け、情報を整理していく。冷たい外気が、逆に心地いい。
アスモデウスに関しての噂は様々なものがあった。
青年の姿で現れるが、それは最初だけ。実はアスモデウスは蛇になるのだと。またアスモデウスが出現すると雨が降るなど、挙げだしたらきりがない。
どこまでが面白おかしく付け足されているのか。真偽はどうでもいい。そもそもアスモデウスの存在など空想上のものだ。
しかし実際にアスモデウスに会うため、ドュンケルの森に足を運んだ女性もいると聞いて危機感を覚える。
今日、はっきりと名前が挙がったのはドリスと呼ばれる娘と主催者の娘であるディアナだけだが、あそこは薄暗く人目も少ない。獣だって出ることもある。
やはり警備の手配を再度するべきか、と考えを巡らせたときだった。不意に人の気配を感じ、セシリアは素早く後ろを振り返る。
そこには先ほどアスモデウスの話題に厳しい口調で口を挟んできた、アルツトと名乗った男がいた。仮面を身につけその表情は読めない。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
意外にも体調を気遣われ、セシリアは目を丸くする。すぐに彼から目線をはずした。
「いえ。外の空気を吸いたかっただけです」
「なるほど」
聞いておきながら、あまり興味はなさそうだ。だから今度はセシリアから尋ねてみる。
「……あなたは?」
「俺も似たようなものだ」
会話と呼ぶには互いに短いやりとりだ。しかしアルツトはなにげなくセシリアとの距離を縮めてくる。
セシリアは身の振り方に迷った。こういう場で彼女に声をかけてくる男性は珍しくない。けれど、この男の雰囲気はどこか違う。
さらに彼はアスモデウスの話にわざわざ口を挟んできた。なにか知っているのか、その件で自分に接触してきたのか。
セシリアは改めてアルツトの視線を受け止める。仮面の奥の瞳は漆黒で揺るがない。
彼は優雅に、かつ無遠慮にセシリアに真正面から近づいてくる。手すりを背に自然と追い詰められる格好になった。
続けてアルツトはセシリアの耳元で秘密を打ち明けるかのごとく声を潜めて囁く。
「もっと上手くやりたいなら次はストールくらい羽織ってこい」
彼の発言の意図がとっさに読めない。目を遣り、表情を確認しようとすれば、アルツトはセシリアの頬に触れるためなのか手を伸ばしてきた。
セシリアの視線も意識も男の手を追って集中する。ところが接触寸前で男の手首が掴まれた。
「そこまでだ」
低い声色に風が
そこには、アルツトに向かってまっすぐ視線を送るルディガーの姿があり、彼がアルツトの行動を遮ったのだ。
突然現れた男に対し、アルツトは怯みもせず口の端を上げる。
「驚いた。誰かと思えばアルノー夜警団のアードラーじゃないか。ここで彼女になんの用だ?」
男の返し文句にルディガーはわずかに眼光を鋭くした。驚いたと言うわりにアルツトに動揺は見られない。
アルツトから目をそらさずルディガーは告げる。
「彼女は俺が口説くんだ。悪いが他を当たってくれ」
「そんなことを言っていいのか? ここの娘はあんたに散々熱を上げているというのに」
手の力を緩めずにいるルディガーにアルツトは挑発めいた言い方をする。ルディガーは涼しい顔で返した。
「だとして? 君には関係ないだろ」
「大ありさ、この状況で後から来た奴におとなしく『はい、そうですか』と譲る人間がいると思うか?」
鼻を鳴らすアルツトに今度はルディガーが笑ってみせた。
「その台詞、そっくりそのままお返しするよ」
ここでアルツトは意表を突かれる。ルディガーはアルツトの手を離すと、なにげなくセシリアの肩を抱いた。
「譲るなんてとんでもない。彼女はとっくに俺のものなんだから」
軽やかな口調だった。いつものセシリアならすかさず物申すところだが、このときはぐっと堪える。今の自分の立場を考えれば余計な口を挟むべきではない。
上官の思惑も目の前の男の真意もまだ量りかねる。とくに初めて会ったときからアルツトから向けられる感情はどうも掴み所がなく不透明だ。
しばしの沈黙。扉一枚を隔てただけの賑やかな世界から遠く隔離された闇夜の
「わかった。ここはおとなしく引こう」
口火を切ったアルツトはおとなしく一歩下がると、ルディガーからセシリアに視線を移す。
「ルチア・リサイト」
一度だけ告げた名を彼ははっきりと口にし、空気を震わせた。
「気になるなら、お前も本当の姿で俺を見つけて尋ねて来い。少しはお前の欲しい情報を与えてやろう」
「あなたは……」
「言ったはずだ。“私はアルツト”だと」
含みのある言い方をして、アルツトはその場を去る。残されたセシリアは、ルディガーに目を向けた。
どうして彼がここにいるのか。なにかあったのか。それともアルツトが気になったのか。
それらの疑問をまとめて口にしようとする。
「どうされ……」
「言っただろ、口説きにきたんだ」
思わぬ切り返しに目を見張る。困惑するセシリアをよそに、ルディガーは改めてセシリアと正面から向き合った。
続けて仮面に隠れず露(あら)わになっているセシリアの白い頬を撫でると、当然の流れと言わんばかりに彼女に口づける。
まさかの行動にセシリアは目を開けたまま硬直した。
「酔ってます?」
唇が離れ、すかさず尋ねる。驚きはしたが、冷静さは保っている。
それは声にも表れ、そんなセシリアの問いにルディガーは抑揚なく答えた。
「ああ、酔ってるよ」
さらにセシリアの
「どうしようもないくらいにね」
下唇を舐め取られたのを皮切りに有無を言わせない甘い口づけが始まる。セシリアは思わず眉をひそめたが、抵抗もせずにただ受け入れた。
幾度となく触れ方を変え、次第に唇が離れる間隔が短くなる。舌を滑り込まされ、より深く求められると、わずかにくぐっもった声が漏れた。
「ふっ……」
観念してぎこちなくもキスに応じる。上官の考えが読めない。そこで、こちらに寄ってくる人の気配を感じた。
条件反射でセシリアは顎を引こうとしたが、ルディガーがすぐさま口を塞ぎ、口づけを続行させる。
「ぁ……っ」
いつの間にか腰に腕を回され、逃げ道がなくなっていた。
さすがに戸惑っていると視界の端に赤いドレスが映る。裾が翻り、逃げ出すように遠ざかっていくのが窺えた。
自分よりも
セシリアは顔を背けたのと同時にルディガーの口元に右手を持っていき、物理的に口づけを中断させた。
「どうしたんです? あなたらしくありません」
やや早口に、そして相手にしか聞こえないほどの小声で捲し立てる。ルディガーはセシリアの手首を掴み、そっと自分から離した。
「らしくない?」
「こんな見せつけるやり方は……」
そこで言葉を止める。顔を確認できなかったが、先ほど現れたのはおそらくルディガーを追ってきたディアナだ。
彼女が自分たちを見て、どのような感情を抱いたのか。絶望か悲嘆か。はたまた憤怒か。
ケリをつけるとは言っていたが、いささか乱暴すぎる方法だ。ルディガーの評判だって落としかねない。
そう言おうとしたが、ルディガーが先に続ける。
「別に、もういい加減潮時だって話だったろ。それに今は彼女は関係ない」
ルディガーは掴んでいたセシリアの手首を今度は逆に自分の方に寄せる。次に目を閉じると、
その光景にセシリアは息を呑む。ルディガーは静かに目を開け、セシリアを見据えた。
「全部俺のものなんだろ。髪の毛一本でも他の奴に触らせたくない」
きっぱりと言い放ち、掌に舌を這わせていく。ザラついた生温かい感触に、手を引こうとするも叶わない。
酔っているのは、酔っていくのは、むしろ自分の方だ。
輪郭が融ける闇夜、セシリアは冷たい風を受けて奥底に沈めていた気持ちに必死に蓋をしていた。
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