2
ホフマン家はウリエル区の中でも一際大きな屋敷であり、それは主人がここ一帯の権力者なのを表していた。
現当主ホフマン卿トビウスにとって夜会は情報交換の場であり、自分の地位を誇示するものでもある。
夜の
儀礼的なものだと理解していても、誰もが自分に声をかけていく瞬間がトビウスの高揚感と自尊心を高め、彼の気持ちは浮上する一方だ。
鼻の穴が自然と大きくなり、顔もにやけてしまう。トビウスは小太りで背もあまり高くなく、お世辞にも見目が麗しいとは言いづらいが権力者としての貫禄は十分にあった。
なにより十八になる娘ディアナは妻に似て十分に美しい。その娘が最近、アルノー夜警団のアードラーに熱を上げている。
この夜会は娘のためでもあった。もちろん娘のためだけではなく、娘がアードラーに嫁いだとなると自分の立場だって変わってくる。王家に近づく一歩になるのは間違いない。夜警団への出資は十分にしてきたし、王家へ従順な姿勢を見せてきた。
それは純粋な忠誠心ではなく、すべては自分への投資だ。
ひそかに大きな野望を抱きつつ今宵も夜会の幕が開けた。
参加者の大半は仮面を身に纏い、素性を隠す。身分証を見せ、中に足を踏み入れるが、そこからはよっぽどでなければ自分の名を名乗ったり身分を明かしたりはしない。
わかりきっている相手がいてもそこは暗黙の了解だ。お互いに指摘するなど無粋な真似はしない。
純粋に異性との出会いやおしゃべりを楽しむ者がいる傍らで、まことしやかな黒い噂が飛び交い、駆け引きと腹の探り合いが行われる。
会場には端にテーブルが設けられ、ワインと軽食が並び自由に取っていける仕組みだ。あとは好きに移動し、各々好きに過ごす。
豪勢に吊るされたシャンデリアが真昼と見紛うほどの明るさと華やかさをもたらしていた。色彩豊富な女性のドレスが眩く、正装した紳士たちとの話し声が幾重にも重なり賑やかさを生む。
セシリアは銀色の仮面をつけ、雑談に花を咲かす若者たちの輪の中に紛れ込んでいた。今宵の彼女は青いドレスに身を包んでいる。
派手な装飾はなく胸元はシンプルだが腰回りから足元へと波打つように光沢のある生地が広がりを見せ、セシリアの白い肌によく映えていた。
いつもまとめ上げている髪はゆるやかにおろされ、彼女の肩のラインを金色の柔らかい髪が撫でていく。おしとやかな雰囲気よりも噂が好きそうな快活さを出すようセシリアは心掛けた。
グラスを片手に持ち、さりげなく移動しつつお目当ての話題で盛り上がっていそうな集団を探す。
「アスモデウスにどこで会えるか知ってる?」
ふとセシリアの耳に飛び込んできた会話に、彼女はそっと意識を向けた。
「アスモデウスなんていないでしょ?」
こわごわと話を聞いていた娘が聞き返すと、女性は口の端を持ち上げる。続けてしっかりと紅の塗られた唇がゆっくりと動き出す。
「それがね、噂ではドゥンケルの森の入口付近で会えるんですって」
「本当? でもあそこって前に誰か亡くなっているんでしょ?」
「そんなことを言いだしたらきりがないわ。それにね、私ドリスが森の入り口の方に向かっていくのを見たのよ」
出てきた人物の名前をセシリアは頭に刻み込んだ。共通の知り合いなのだろう。彼女の名前に相手の娘の口調もやや興奮気味になる。
「そういえば、ドリスって最近痩せたし、色白で綺麗になったって評判よね!」
「ね、きっとアスモデウスに見初められたのよ」
口元に手を当て声を抑えようとするも、令嬢たちの噂話は加速していく。なにげなくセシリアが尋ねようとしたところで別の方向から声が飛んできた。
「それだけじゃ、アスモデウスの仕業だとも言えないんじゃないか? 彼女がなにかしら努力をしたのかもしれない」
声の主は男性のものだった。セシリアを含め女性たちの視線が一気に彼に集中する。
仮面をつけているので素顔はわからないが、青みがかった黒髪、落ち着いた低い声。背も高く、顔の造形からそれなりに美青年なのが雰囲気で伝わってくる。
白いシャツに黒のウエストコートと同色のブリーチズは両方とも裾が長めのものを着用しており、清廉さはあるが派手さはない。
一瞬、男に見惚れていた女性だが、彼の指摘にぐっと言葉を詰まらせた。そしてやや早口で反論する。
「でもドリスに事情を聞いたら、黙り込んで詳しく教えてくれなかったの。しかもここ最近の話よ? アスモデウスに頼んだんじゃないとしたら、どんな方法があるっていうの?」
「それは俺の知った話じゃない。ここでおかしく言いふらすなら彼女に聞くべきだ」
跳ねのける言い方に女性は顔を赤くし、今度こそ押し黙った。共にいた令嬢に声をかけその場をそそくさと後にする。
微妙な距離感を保っていたセシリアは次の行動をどうするべきかすぐさま思索する。そこで、男がセシリアの方に顔を向けたのでふたりの視線が交わった。
「お前も興味があるのか?」
「いえ」
セシリアは目線をはずし、言葉を濁した。極力特定の人物との接触は避けたい。ところが男はさらにセシリアに質問する。
「名前は?」
「この場ではマナー違反じゃありません?」
お互いに仮面をつけている身だ。セシリアはたしなめつつも、にこやかに返した。対して男は表情をまったく崩さない。
「気になったから訊いたんだ。なにが悪い? 俺はアルツト」
思わぬ切り返しにセシリアは面食らう。そこで考えを改めた。ここまでやりとりすれば、やましいことがない普通の貴族令嬢ならば、おとなしく従うだろう。
ましてや相手は自分より年上の威圧的な男性だ。下手に言い返したりするのは得策ではない。
セシリアは戸惑いを装い静かに答えた。
「ルチア・リサイトと申します」
「ルチア……リサイトね」
確認するように復唱する男に、セシリアはぎこちなくも背を向けた。男性にあまり慣れていない
幸い会場は広い。他の集団に紛れ込むのはたやすかった。そこでふと今日の主催者であるホフマン卿トビウスを確認する。
近くにはよく知る人物もいた。彼が話している相手はセシリアの上官であるルディガーだった。
珍しく前髪を上げ、いつも無造作な
ネイビーを基調とした色合いに、袖口と裾には金の刺繍が施され、白いジャボが首元を覆っている。
嫌味なく着こなしている姿はルディガーの立場に関係なく人目を引いた。現に何人かの女性たちは彼に視線を送っている。
話しかけたい者もいるのだが、それを許さないとでも言いたげにルディガーの横にはトビウスの娘のディアナがぴったりと付き添っていた。
「ああもガードが堅いと近づけないわよね」
「せっかくアードラーがいらっしゃっているというのに」
恨めしげな女性たちの声が耳に届く。
ディアナは赤みがかった長い茶色の髪を綺麗にまとめ上げ、主役と言わんばかりに着ている深紅のドレスも一際豪華で華やかなものだった。フリルとレースがふんだんにあしらわれ薔薇を連想させる。
しかし本人は
重厚感のあるボレロにもディアナの髪の色と同じ銅糸でホフマン家の徽章があつらわれている。彼女のお気に入りで普段から羽織っており、見る者が見ればお馴染みだ。
主催者を差し置いて着飾ってくるほど、皆弁えていなわけではない。ここはトビウス、そしてディアナのホームだ。
「そういえば、ディアナもアスモデウスに接触しているって話よ。これは噂じゃなくて、彼女からそれらしい話を聞いたの」
ふと耳に飛び込んできた発言に、セシリアは顔を向けそうになるのを堪えて、意識だけを集中させた。
「どうしてディアナが? 彼女は十分に綺麗で何人もに求婚されているんでしょ?」
身分も金銭的にも彼女にはなにも不自由していそうにない。しかし人間は欲深い生き物だ。
「夢中になっているアードラーがなかなか靡(なび)いてくださらないからじゃない?」
皮肉めいた言い方だった。セシリアが視線を戻すと、ルディガーのにこやかで温和な表情にディアナは嬉しそうにしている。
セシリアはじっと彼女を観察した。ディアナは女性にしては背が高い方だが、細身で背の高いルディガーにもよく釣り合っている。
きりっとした目元が、気の強そうな印象を誘う。彼女の自信がそうさせているのもあるのだろう。締められたウエスト、肌は血色さがあまりなくむしろ色が白い。
そして隣にいる男からは、とてもではないが迷惑そうに話していた面影は微塵も感じられない。
だから、どうだというのか。セシリアは自分を叱責する。
彼がどのような相手と付き合おうと、自分の立場も決意も変わらない。遊びでも、本気でも。結婚も同じだ。
もうひとりのアードラーであるスヴェンが結婚したのだ。ルディガーが結婚する現実だって十分に起こりえる。むしろ今までなかったのが不思議なのだ。
自分も改めて覚悟しなくてはならない。
セシリアは不自然ではない程度に彼らに視線を送る。アスモデウスと接触した可能性があると言われていたディアナの情報がもう少し欲しい。
あとで上官に話を聞いてみようと決める。
そのときふとルディガーと目が合った、気がした。距離は十分に取ってある。セシリアはすぐに目を逸らした。
自分が今日、ここに来た目的は情報収集だ。よっぽどの非常事態や危険が上官を襲わない限り、最後まで赤の他人を通さなければ。セシリアは再び群衆に溶ける。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます