剣に願いを、掌に口づけを―最高位の上官による揺るぎない恋着―
くろのあずさ
第一章 夜風に酔う
1
風ひとつない
「……この感じ、また雨が降るのかもしれないな」
「
鋭い部下の声を受け、ルディガーは視線を窓の外から机を挟んで自分の真正面に立つ副官に戻した。
「聞いているよ。俺がセシリアの話を聞き逃したことがあるかい?」
さらさらと色素の薄い短めの茶色い髪と同じ、ダークブラウンの瞳が細められる。相変わらずの調子にセシリアは頭痛を起こしそうになった。
後ろでまとめ上げきれず、サイドに落ちた彼女の柔らかい金の髪がかすかに揺れる。
ふたりは同じ制服を身に纏っていた。闇と気高さを表す黒を基調とし、光と礼節を示す赤がラインと裏地に取り入れられている。
襟元から漆黒のマントがかけられ、さらに
この国の、ひいては近隣諸国の人間が見ればすぐに彼らが何者なのか理解できる。アルノー
セシリアの団服よりルディガーの方が装飾が豪華なのは、その地位の高さからだ。
セシリアは報告書に目線を落とし、話を戻す。
下の団員から上がってきた案件、近隣諸国の気になる動き、来客予定など一通りは述べた。後は……。
「ホフマン卿から夜会への案内状が届いていますよ」
それを聞いて、ルディガーの面持ちが急激に曇った。まるで今の天気だ。ここ最近、彼はホフマン卿の屋敷で開催される夜会にほぼ毎回招待されている。
「随分、熱心にお誘いされていますね」
それとなくセシリアが水を向けると、ルディガーがため息交じりに口を開く。
「ホフマン卿に、というより彼の娘のディアナに気に入られてね。彼は夜警団に対して理解もあるしウリエル区では有力な権力者だ。
国王直属の管轄にあるアルノー夜警団は、王や城はもちろん、王都アルノーの警護も承り、人々の安穏な暮らしを維持するため官憲組織の役割も担っている。
市民からの訴えを受けて、国王からの命で、ときには騎士団として近隣諸国へ赴くこともあり、その際に彼らが共通して掲げる基本理念は『必要最低限の介入を』だった。
不必要に権力や武力を誇示したりはしない。それゆえ団員に対し尊敬の目を向ける者もいれば、国のお飾りだと
そして夜警団のトップは
現国王クラウス・エーデル・ゲオルク・アルントは齢二十六にして聡明さと人々を魅了する美貌を併せ持ち、手堅い政治手腕をいかんなく発揮している。そんな彼が若くして王座に即位したのとほぼ同時期に今のアードラーも任命された。
ルディガー・エルンストとスヴェン・バルシュハイト。どちらも国王クラウスと同い年の幼馴染みであり、剣の腕も確かだった。
ふたりの男は実に対照的で、黒髪に目つきも鋭く、無愛想で他者を寄せつけない雰囲気のスヴェンに対し、ルディガーは温和で話術にも長け、愛想もいい。
セシリアはルディガーの副官だ。この立場は彼女がアルノー夜警団に入団したときからずっと変わらない。
「やっぱりスヴェンが結婚したのが大きいよなぁ」
ルディガーは眉尻を下げて困惑気味に笑った。セシリアは律儀に同意する。
「そうだと思います」
スヴェンもルディガーもタイプは違っていても、それぞれ顔立ちは整っており、アードラーという立場も申し分ない。彼らに憧れを抱く女性も少なくはなかった。
アルント王国では男女ともに十五で結婚が認められ、その際に重要視されるのは王の署名が入った結婚宣誓書だ。神を前に愛を誓い合う者は少なく、国王がいかに絶対的な力を持つのかを示している。
結婚も離婚も書類一枚の提出で成立してしまうので、国民にとって結婚に対する意識はそこまで重くはないのも事実だ。
とはいえ一定の身分以上の者は、書類はもちろん挙式するのが通例だった。ルディガーと同じアードラーであるスヴェンの結婚式が執り行われたのはつい先日の話。
スヴェンが結婚した報せはめでたさと驚きを伴い、国中を駆け巡った。
手が届かない存在だと思っていたうちのひとりが結婚したとなると、自分にも機会があるのではと考える女性も現れてもおかしくはない。
欲しいものは基本的に手に入る貴族の令嬢たちだ。親の力や立場を利用し我こそは、と積極的に行動に移す者も出てくる。
ディアナもまさにそういった女性のうちのひとりだった。
「まぁ、彼女に関してはそろそろケリをつけるさ」
やれやれと肩をすくめるルディガーにセシリアは、ふと思いついて声をかけた。
「なら、その夜会に次は私もご一緒してかまいませんか?」
突然の申し出にルディガーは目を見開く。だが、すぐに口角を上げ嬉しそうに笑った。
「なに? 俺の心配をして?」
「情報収集がしたいんです。貴族たちの間で話題になっている件で」
淀みのない素早い返事に、ルディガーはあからさまに落胆する。
「情報って……アスモデウスや流行りの美容法についてかい?」
アスモデウスは破壊魔神の名前だ。美や自信などの概念を司り、元は天使だったとも言われている。もちろん実存はせず、民間伝承の中だけに留まる存在だ。
昔からこういった魔女や悪魔、幽霊などの類は、夜遅くや危険なところに出歩かないよう大人から子どもへ戒めを込めて話されるものもあれば、暇な貴族たちの道楽的なものとして語られたりする。
しかしこのアスモデウスに関して、最近、街では妙な話が出回っていた。
主に若い娘たちの間で賑わっており、アスモデウスは青年に化けて、気まぐれに出会った女性に美しさを与える。肌は白くなめらかになり、ドレスの似合う綺麗なボディラインになれるのだと。
本来、恐ろしく畏怖の対象とされるアスモデウスが、まるで憧れの存在として扱われることにセシリアは違和感を覚えていた。
世俗的には面白ければ広まるのはあっという間だ。真偽など大きな問題ではない。とくにお喋り好きな女性が中心ともなれば、話の内容はさらに加速していく。
アスモデウスに見初められるにはどうすればいいのか、彼に会うためにはどうすればいいのかなども付随している。
“アスモデウス”と固有名詞がわざわざ出てくるくらいだ。ある程度、知識のある人間が言い出した可能性がある。アスモデウスなど、この噂で初めて存在を知った人間がおそらく大多数だ。それくらいの知名度だった。
そうなると、発生源はおそらく教養のある身分の高い人間だ。
「上流階級の集まる場でどういった話が交わされているのか気になるんです」
真面目なセシリアに対しルディガーはどうも投げやりだ。
「世の男共が不甲斐ないから、アスモデウスに憧れる女性が出てきてもおかしくはないのかもな。とはいえ所詮は噂話だろ? そこまで気になるのかい?」
「まったく根拠もないのにここまで流布するとは思えません。穏やかな内容ではありませんし……どうも引っかかるんです」
ルディガーは静かに息を吐く。セシリアが言い出したら意外と頑固なところがあるのを彼は熟知していた。なによりセシリアの直感はよく当たる。
「わかった。せっかくセシリアからデートに誘ってくれたんだ。手配しておこう」
「ありがとうございます。ですが今回はあなたの副官としてではなく“ルチア・リサイト”として足を運びますので、会場での接触はなしですよ」
冗談交じりのルディガーにセシリアは訂正する。
『ルチア・リサイト』はセシリアが諜報活動をする際に使用する名前だ。
アルノー夜警団と関係の深いリサイト伯爵家の娘という設定で、きっちりと身分証まで用意しており、万が一に備えても抜かりはない。
ルディガーも会話の流れから理解していたものの、不服そうな顔をセシリアに向け「それにしても」と口を尖らせた。
「ついて来るのは、嘘でも俺が心配だからと言ってほしいね」
「プライベートにまで口出ししませんよ。それに女性の相手はお手の物でしょ? 心配していません」
「俺はいつもセシリアを心配しているのに?」
間髪を入れないやりとりに少し間が空く。セシリアは軽く目を閉じた。
「アードラーであるあなたにご心労をおかけし、部下として自分の不甲斐なさを大変遺憾に思いますよ」
「そうじゃなくて……」
仰々しい言い方のセシリアにルディガーが苦い顔をする。
すっとセシリアの瞼が開かれた。穏やかな海の底を表すかのような蒼い瞳がじっとルディガーを捉える。
「元帥」
いつもと変わらない落ち着いた声色で彼女は目の前にいる男に呼びかけた。
「私の心配は無用です。うまくやりますから。あなたはご自分のことだけを考えていてください」
そしてセシリアは今日の任務にかかるべく、挨拶をしてさっさと部屋を出て行った。
どうしてこうなるのか。ひとり残った部屋でルディガーは頭を掻いて項垂れた。
「心配しないわけないだろ」
訴えかけるひとり言は、誰にも届かない。
まったく。普段は嫌というほどこちらの心の機微に敏かったりする副官だが、この手の話はどうも噛みあわない。
原因は自分にあるのだろうとルディガーも自覚はしてはいるのだが。
――いつだって心配しているよ。
彼のダークブラウンの双眸が鋭く色めく。誰に対するわけでもない牽制めいたものだった。
「……悪い虫がつかないか、ね」
セシリアを自分の副官にして早六年。彼女ももう二十二歳になる。自分が彼女を副官にすると決めたのが二十歳の頃なのだから、時が経つのが早い。
頭を切り替え、ルディガーは今日の仕事に取り掛かる。夜会は明後日だ。気が進まないのが本音だが、セシリアも行くと決めたのだから渋ってはいられなかった。
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