第5話
その少女は、いつもの僕の席に座り、一心不乱に本を読んでいた。
見たことのない子だな、と思うと同時に、よくこんな場所を見つけたなあ、なんて感心する。僕がここを根城として以来、誰も近づいてさえこなかった場所だったのに。
もちろん自分の城に侵入されたような不快感のようなものも感じないではなかったが、それよりも、あまりの彼女の本に対する真剣さに感動すら覚えていた。
何年生だろう。
見たことがないから、一年?それにしては妙に落ち着いて見える。
腰近くまである長い髪が印象的だ。
束ねたり巻いたり、そんな手間は一切かけていない。それでも艶のあるキレイな髪だと思った。
柄にもなく他人への興味なるものを抱いている自分に驚く。
僕はいったいどうしてしまったのだろう。
これまでも、そしてこれからも変わることがないと思っていた毎日に突然訪れた非日常に、どうしても戸惑いが隠しきれない。
「何か?」
不意に彼女の方から話しかけられた。
鋭い視線。
どうやら不躾に見すぎてしまったようだ。
せっかくのあの集中力を切らせてしまったことに、申し訳なく思う。
「すみません。この席に座ろうと思ってきたんです」
こちらをまっすぐに見る彼女の目は、とても黒く澄んでいて、芯の強さを感じさせる。
きっと流行からはまったく外れているのだろう化粧けのないその容姿が、その瞳にはとてもよく似合って見えた。
不意に視線の強さを緩めた彼女は、先ほどよりはやや穏やかに、自分の斜め前の席につくよう促してくる。
「どうぞ」
広げていた何冊かの本を手早く片付ける。
そんなに広くない机だけれど、二人で座る程度の空間は確保できるのだ。
明けてくれた斜め前の席にカバンを置き、ゆっくり座る。
受け入れられた?
同じ机にいてもいい、ということはそういうことなのだろう。
よく分からないが、よかった。
図書室が自分だけのモノでないことなんて重々承知している。
それでも、たとえ追い出されたとしても、ここ以外の居場所を知らない僕には、ここ以外に行く場所がないのだ。
そんなことを思いつつも、誰かと相席したことがない僕は内心ドギマギしていた。
でもそれは意外と不快な感情ではなく、どちらかというと高揚。予想外のハプニングを楽しんでいる僕がいた。
そんな僕の様子を気にするでもなく、彼女はすっと本の世界に戻っている。それは、心地のよい静寂だった。
なんとなくノートを広げ、いつも通り課題を進める。
いつも通りのはずなのに、視界には知らない女の子。どうにも不思議だ。
それでも、斜め前という近くに座っているはずなのに、彼女には不思議と存在感がなかった。それが彼女の持つ雰囲気のせいなのか分からないけれど、常々感じている教室の中多数に囲まれているときの孤独よりも、遥かに居心地がいいのはなぜだろう。
しばしの沈黙。それぞれがそれぞれのことをして、流れていく静かな時間。
知らぬ間に自分の課題に集中していて、すっかり少女のことは頭の中から抜け落ちていた。
「ふー…」
小さなため息が聞こえ、ふと顔を上げる。
こちらに来てからもう一時間ほど経っていて、本を読み終えたらしい彼女がじっとこちらを見ていた。
柔らかく差し込む夕焼けが、彼女の頬を薄赤く染めている。僕はそれを、なぜかとても美しいもののように感じた。
「三嶋葵、17歳。性別女。4月から転校してこの学校に来た、3年4組28番。文芸部所属。窓際の一番後ろの席でだいたい本を読んでいる。こんな感じです」
突然の自己紹介。
確かに、4組に転校生が来た、とみんなが騒いでいたのは記憶に新しい。
そうか、それが彼女だったんだ。
転校生で、しかも違うクラスともなれば、見たことがないのも頷ける。
「僕は安達渓です。3年2組1番。集団でいるのが苦手で、いつもここに来ています」
それ以外話すこともなく、簡単な自己紹介を終える。
そこに何のリアクションもないまま、彼女は口を開いた。
「また、ここに来ていいですか?」
「えっ?」
そんなこと聞かれると思っていなかったから面食らってしまう。
「だって、あなたのテリトリーに勝手に入ってしまったから」
別に僕はそんな主張もしていないし、これまで会話もなかったはずで。
それでも彼女は見抜いていたのだろう。
僕がここを唯一の逃げ場としていることに。
正直、そういうことを気にする人だとは思わなかった。
傍若無人に見えて、実はよく周りの空気を察知する人なのかもしれない。
「どうぞ。僕が言うのも変な話だけど、遠慮なく来てください。最初は驚いたけれど、キミなら大丈夫だと思うので」
なんと表現すべきか分からなかったから、ひどく曖昧な言い方になってしまったけれど。
「よかった。私もあなたなら大丈夫な気がする」
完全に僕の言いたかったことを理解してくれたようだ。
あなたなら私の独りを、壊そうとはしないから。
彼女がそう言ってかすかに笑ったとき、僕は確信した。
彼女は、僕と同じタイプの人間だ、と。
そしてその確信の通り、僕の中で三嶋葵という存在は大きく、強くなっていくのだった。
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