第2話

なかなかに無為な夏休みを終え、迎えた9月1日。

久しぶりに袖を通したブラウスの背中は、すでに汗でじっとり貼り付いている。

濃い臙脂色のネクタイを緩め、ほんの少し風を通すけれど、無駄な抵抗にしかならなくて。


纏わり付く不快感を無理矢理呑み込んで、人の波に身を沈める。

相も変わらず泣き喚く蝉。

それに負けじと喚きつづける壇上の大人の声。

全校集会という、こんな真夏には適さない行事は、一体いつまで繰り返されるのだろう。


同じ服を着せられ、同じような姿勢で、皆が同じ話を聞く。

受験生である三年生はこの9月からが勉強正念場であることとか、長い休みが明けてだらけた気分を引き締め直さなければならないこととか。

毎年毎年繰り返されるテンプレートの言葉たち。

懐かしいような、それでいて迷惑なざわめき。


ああ、また同じ日々が始まるのだ。

居心地の悪さを抱えたまま、ひっそり人波に身を潜める、そんな日々が。

諦めにも似た気分でそんなことを思っていた。

自分自身の存在さえも熱に溶けてしまう、そんな感覚の中。


「哀しいお知らせがあります」

少しトーンの変わった壇上の声に、周囲のざわめきが一瞬止んだ。

響くのは、蝉の声。

命を振り絞る夏の終わりの声。

僕は絶望にも似た気分でそれを聞く。


「三年生の三嶋葵さんが亡くなりました」


生徒の群れのなかに走る動揺。

事の衝撃は、悲しみを呼び起こすことすらできないようだ。

かく言う僕もそれは同じで、今聞いた言葉を頭の中で反芻する。

「三嶋葵が、死んだ…」

その言葉をなんとか理解しようと振り返り見る少女たちの列。

確かに、あの少し重いような黒髪は見えなくて。


やがて聞こえるすすり泣くような声。

高校生の感受性はすごい。

彼女に友人らしい友人はいなかったはずなのに。


そうか。

死んだのか。

三嶋葵という、僕のなかにくっきりと刻まれているあの存在は、もうこの世界から消えてしまったのか。


そう理解した直後、全ての音が消えた。

背中に伝う冷や汗だけがその存在を主張して、ほかの感覚はひどく鈍くなっていった。

ぐらつく頭。

歪む景色。

不意に視界に混じり気のない空が映り込んで、意識はそのまま白に呑み込まれた。




目を覚まして感じたのは、消毒液のにおい。

柔らかなピンク色のカーテンが、ゆるく揺れている。

横たわった体を支える固いベッドの感覚に、ここが保健室であることを知る。


「あ、目が覚めた?」

不意に女性の声がして、そちらへと目をやると、かすかにめまいがした。

「集会の途中で倒れたの、覚えてる?」

なんとなく残っている記憶に頷く。

「貧血起こしたんだね。休み明けでいきなり暑い中立ってたから。気分はどう?」

「…かなり、良くなりました」

絞り出した声が思ったよりも掠れていて、自分が予想以上に弱っているのが分かった。

「もうちょっとここで休んでてね」

少し良くなったのだろう顔色に安堵の表情を見せつつ、保険医は去っていった。


重い腕を持ち上げ、額へと押し当てる。

光が遮られ、目の前に広がる暗さにほっとした。

眩しすぎるのだ、何もかも。

部屋一体を照らす明かりも、カーテンから差し込む夏の日差しも。


そして消えていったひとつの生命も。


頭の奥の方に残る不快感をやり過ごしながら、倒れる前の出来事を反芻する。

久々に全身で受け止める暑さは、かなり厳しいものではあった。

それでも、それよりも厳しいのは知ってしまった現実。


そう、三嶋葵は死んだのだ。


三嶋葵、17歳。性別女。

3年4組28番。文芸部の、たった一人だけの部員。

賑やかな女子のグループには属さず、常に単独行動を好む。

長い髪は常に束ねられることはなく、窓際の一番後ろの席で常に何らかの文庫本を読んでいる。

そう、三嶋葵はそういう人間だった。

きっと、誰の目からも。


「安達はそれでいいんだよ」

女子にしては低めの、それでも落ち着いた声が耳の奥に響く。

いつでも彼女の言葉が、僕を引き留めた。

この無意味で曖昧で、色のない世界に。


それなのに、どうして。


思えば、詳しい死因について聞かなかったな、と思う。

自殺か、交通事故、はたまた急病なのか。

それでも、そんなことどうでもいいような気もしていた。

どのような形で彼女が命を落としたのかは僕には関係ない。


だって、何を知り何を考えたところで彼女がいない現実は覆らないのだから。


思い出せば思い出すほどに乱れてくる呼吸をなんとかいなして、落ちてくる瞼を受け入れる。このまま少し、眠ってしまおう。

次に目を覚ましたとしても、もう三嶋葵が戻ってくることはない。

僕の知らない間に、僕の手の届かないところへ行ってしまった命。

その事実から目を逸らすように、僕はどろりと重い眠りに身を任せた。



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