第3話 広い世界

キロは、東へ向かって歩いた。


おばさんや子どもや犬が時々歩いている。

自転車に乗っている人もいる。

じきに、人間用の道は猫には不向きだと思えた。

危ないし、アスファルトは熱い。

犬も吠えるやつがいる。


砂利で覆われた駐車場に入り、そのまま塀の上や人の庭、壁の隙間なんかを歩くことにした。こっちの方がずっと良い。


初めて見る外の景色は何もかも珍しく、庭先の花々を眺めたり、蟻の行列を観察したり、鳥の鳴き声を聞いたり、見るものはいくらでもあった。


窓から見える人の家の風景も面白かった。おじさんがパンツ一枚でくつろいでいたり、小さな子どもが水浴びをしていたり、母親に叱られていたり、仏壇に向かって念仏を唱えているおばあさんがいたりした。


「世の中にはなんとたくさんの生き物がいるんだろう!」


キロは、人間はももかさんと遊ぶにくるももかさんの友達くらいしか知らなかった。動物にいたっては自分しか知らなかったのだ。


テレビをよく見ていたので色んな人や生き物がいることは知っていた。しかし、テレビで見るのと、外の世界で会う人間や動物は圧倒的に存在感が違った。それぞれに匂いを放ち、熱を発し、独特の物音や声を出す。キロはすっかり夢中になってあちこちの庭を探検して、見るもの全てを味わった。


「外の世界は広いんだなあ!それなのにぼくは今まであんな小さな世界に閉じ込められていたなんて!これからはちょいちょい外に来ることにしよう。」


突然、とある家の庭先にいた柴犬が突然キロに襲いかかった。犬小屋の陰で寝そべっていたのか、見えなかったのだ。


硬く鋭い柴犬の歯は、キロの脇腹のあたりをかすめ、驚いたキロはニャッと叫び声をあげてひたすら走って逃げ出し、広い道路に飛び出した。


その時「わっ!」と幼い声がして振り向くと、自転車に乗った男の子とぶつかる瞬間だった。


とっさにキロは前に飛び出し、男の子はハンドルを横にきってガシャーン!!と倒れ込んだ。


尻尾に激痛が走ったが、キロは走ることをやめなかった。恐怖がキロの足を止める事を許さず、息が切れてもむちゃくちゃに走って走って、どうにか安全そうな塀の隙間に逃げ込んだ。前足の震えが止まらず、尻尾はズキズキと痛み、お腹の傷もヒリヒリする。


キロはその場にへたり込んで、動けなくなってしまった。


いつの間にかウトウトしていた。

どのくらいそこでじっとしていたか、分からない。


ふと気づくと、西の空には赤い光が満ちていて、夕暮れを示していた。


「もうすぐ夜になってしまう。」


キロは焦った。東へ東へ進んでいたので、西に行けば帰れると思っていたが、走っている間に、どっちに戻れば良いか見失っていた。


「どうしよう。」


考え込んでいる間に夕闇がうっすら迫ってくる。

キロはとりあえず立ち上がり、あてもなくしょんぼり歩き出した。


どこか、見覚えのある場所はないか、目を凝らして注意深く見回しながら歩く。


あちこちの家から夕飯の匂いが漂ってくる。カレー、肉炒め、魚の焼ける匂い…いつもなら心をときめかせる匂いが、今のキロには惨めな思いを感じるものだった。


家からはにぎやかな音も聞こえてくる。昼間出かけてた人たちが帰って来たのだろう。家の中は昼間よりずっと活気があった。ザバザバとお風呂の音、ガタンゴトンと動き回る音、にぎやかな喋り声、テレビの音。


今のキロには遠い世界の物音だ。

帰る家が分からないのだから。


ゆっくりゆっくり前足を出しては進みながら、鼻の奥がじんじんして目が熱くなるのを必死にこらえながら、歩いた。





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