第2話 オバケ
私はこの中に入った事があるーー様な気がします。夢なのか現なのか分からない感覚は好奇心を引き寄せました。
柵に触れると木の棘が指に刺さりました。人差し指に血がぷっくりと広がります。それを口の中に放り込むと当たり前なのですが鉄の味を舌が察知しました。私はその味が嫌いではありません。指を咥えた侭の姿で柵を越えて敷地の中に侵入しました。
無造作に植え付けられた木の下にはやはり雑草が生い茂っています。
その先には縁側が見えます。破れた障子がここには誰も住んでいないのだと主張しています。きっと床の木も腐っているに違いありません。
あの茶色く薄汚れた障子の先を私は知っています。
何も置かれていない畳の部屋で大きな押入れが正面と左側にあるのです。
やはり私はここに入った事があるのです。
夏の日だったでしょうか。
蝉取りに出かけた私は虫取り網を片手に持ち、籠を下げてここに来たのです。
左側を向くと如何にも登ってくれと云わんばかりに低い位置から太い枝が伸びた木があります。あの日この木に不憫な蝉がいたのです。子供の低い目線に捕縛される事を望んでいるように蝉は幹にいました。網を両手で握りしめて忍び足で近づいていざ捕獲だ! と云う当にその時、背中をポンと押されたのでした。
ぽんとお尻の上を誰かが押しました。
ぎょっとして振り返ると艶やかな長い髪の女の子がそこにいました。
お化けだと瞬時に思いました。
人は本当に驚いた時には声が出ないのでしょうか。叫んだと思いました。しかし声はブラックホールに呑み込まれて外の世界に発せられる事はありませんでした。
退いた拍子に私はバランスを崩して尻餅をつきました。
女の子はじっとこちらを見ています。
足は確りとありました。
それでも私はお化けだと確信しました。
何故ならば私はこの女の子を知っていたからです。
あの蝉取りの夏の日、私の背中を押しのはこの子だったのです。あの時も彼女は烏の濡れ羽色の髪と対照的な白いワンピースを着ていました。
この子は今長袖を着ています。
あの子はノンスリーブのワンピースを着ていたのではなかったかしら。
夏だったのだから長袖なんて着ている筈はありません。いえ、やっぱり長袖だったのでしょう。全く同じ髪型で、同じ顔をしているのだもの。
破れた障子が動きました。
襖が開いたのです。
私はお化けに連れて行かれるのだと思い、尻餅をついたまま硬直しました。
「どちら様ですか?」
開いた襖から女性が顔を出しました。
大阪弁のその声は生きた人間の様です。
「おばちゃんが勝手に転んでん」
女の子の口から出てきた言葉も大阪弁でした。その瞬間に女に子はお化けではなく人間へと姿を変えました。
ロボットの様に硬くなっていた体に血が通い私も人間に戻りました。
両手を前についてから立ち上がって女性に向き直ります。
「ここの家の方ですか?」
「昔住んでました」
女性は同じ年頃の様に見えます。
そうなのだとすれば、あの日に会った女の子はこの女性なのでしょう。
「私、子供の頃に蝉を取ろうとしてここに来た事があるんです。会いましたーー」
よね、と弱々しく私は問います。
女性が表情を全く変えないものだから自信がなくなってしまったのです。白のシャツにジーパンを履いた彼女からはあの日の少女の面影は感じられませんでした。
「絵美ちゃん?」
女性は私の名前を口にしましたが、私は彼女の名前を知りません。
「夏休みに毎日来てくれ絵美ちゃんやんな? めっちゃ懐かしい!」
女性は縁側から飛び出して私の許へと翔けてきます。
どうしましょう。
彼女の名前が分かりません。
「めっちゃ汚いけど上がって! 映美、おばあちゃんの家行っとき」
「え?」
「勝手にごめんなさい。絵美ちゃんの名前をもらってこの子に映美ってつけたんです」
女の子は私が入って来た柵から外に出て行ってしまいました。
「ほんまに、ほんまに嬉しい」
女性は一度私の目を見て直ぐに目を逸らしました。そして胸の前で右手で左手をぎゅっと握りしめたのです。
それでも私は未だ彼女の名前を思い出せませんでした。
襖を開け放しても畳の部屋はあまり明るくはなりませんでした。それでも真っ暗ではないので部屋の様子は伺えます。左側に押入れはなく正面にだけありました。
記憶は大して当てにはならない様です。
サンダルを脱いで縁側に上がろうとしたのですが、彼女から危ないから履いておく様にと言われてそのまま上がることにしました。床の木は腐っていませんでしたが、体重を乗せるとぎぃと不気味で不安にさせる様な音がなりました。
畳が汚れていたので私達は立ったまま向かい合いました。
「夏休みが明けてすぐに引っ越したんです。絵美ちゃんに何も言われへんかった事がずっと心残りやったんです」
そうです。小学生四年生の夏、お昼から夕方まで毎日の様にここへ来て遊んだのでした。綾取りをしたりゴム跳びをしたり隠れんぼをしたのです。二人でする隠れんぼの何が楽しかったのか今となっては皆目見当もつかないのですが、楽しかったという記憶だけはあります。私はいつも押入れの中に隠れていました。
夏が終わって涼しくなる季節は寂寥が込み上げます。友達が消えてしまったのだと母に泣きついた記憶が、砂嵐のテレビ画面に見覚えのあるドラマが突然映ったかのように浮かび上がりました。
あの時とても悲しかったのです。
「あの頃イジメられてたんです」
彼女は表情を変えません。
「それが辛くて引っ越しをしてもらったんです。絵美ちゃんと出会った時にはもう京都に行く事が決まってたんですけどね、毎日がめちゃくちゃ楽しくて、言い出せんかった」
「私も、楽しかった」
忘れていた癖にしれっと彼女に合わせて言葉を吐きました。私は心にも無い事を然もそうなのだという顔をする事ができます。
楽しかったのはきっと本当なのでしょう。だけれどずっと記憶の奥底に仕舞っていたその感情が本物なのかどうか断言できません。私の記憶は甚だ当てにならないのです。
「引っ越しなんかせんかったらよかった。逃げたから、また同じ事になってしまうんでしょうね」
やっぱり女性は表情を変えません。
目が合わないのです。
「ママ友の集まりから外されました」
「ああ、ママ友って怖そうですもんね」
なんていい加減な合いの手でしょうか。
私には子供はいません。三十路を迎えたというのに、結婚をした事がないどころか候補者すらいません。結婚と云うものは私の人生には訪れないものだと絶念しているのです。
「怖いんです。だから、私ーー」
死のうと思ってここに来ましたと、彼女は無表情で言いました。こちらを向いて居る筈なのに目線は下を向いていて、私のそれと混じり合うことがありません。
何と答えていいのか分かりませんでした。
「私も怖くなってここに来ました」
己の口から衝いて出た言葉に戸惑います。
何を言い出してしまったのでしょうか。
しかし戸惑う私を差し置いて一度開いた口は閉じる事なく先を行きます。
「駄目人間なんですよ、私は」
彼女は黙ったままです。
私が黙れば沈黙が訪れてしまうでしょう。それは何としても避けなければなりません。だって私は彼女の深刻な心の吐露に対して何も言えないのですから。
「役者してたんですよね。でも売れへんから諦めたんです。新しい人生をって思ってるんですけどね、あかんのです。前みたいにアホみたいに頑張るって云うのができんのです。何となく流されて何となく過ごして」
唯生きて居るだけなのです。無駄に二酸化炭素を吐き出す味噌っ滓なのです。
だけれど死にたいとは思いません。それはとても怖い事だと思うのです。鬱屈と過ごす日々は前向きさを奪い、堕落した生活は目標を掲げる力を削ぎ落としていきました。懊悩から掬い上げてくれるものなのかも知れませんが、やはりそれは厭なのです。死後の世界と云うものはきっと物語の世界だけのもので嘘っぱちなのでしょう。だとすれば生をやめた私は何処へ行くのでしょうか。
「絵美ちゃんは駄目なんかやないよ」
彼女は両手で顔を覆って蹲っていました。
泣かせてしまったのでしょうか。死にたいと言い出した人の前で私は暗澹たる思いを口走り、挙げ句の果てには思考の旅に出かけて当人を置き去りにするという非道をしてしまったのです。
私は最低の人間です。
「ママ友との関係とかよう分からんけど、ええやん、そんなん、私ら友達やん」
また適当な事を言いました。
彼女は目の端に涙を蓄えて顔を上げました。やはり泣いていたようですが、漸く目が合いました。直ぐに目を伏せてしまいましたが、一瞬だけかちあった視線は私の胸を熱くさせました。
「絵美ちゃん、たまに連絡してもいい?」
「ええよ」
私が携帯電話の番号を伝えると、彼女は自身のそれに両手で打ち込みました。
「友達なんかおらんかった」
会えば話すだけの人は友達とは呼ばないのでしょう。だとすれば私にも友達はあまりいないなあと思いました。
「ちょっとでええやん、友達なんか。数より質やで」
名言を吐いたような気になりました。有り触れた誰もが口にできるような陳腐な言葉なのにいい気分になってしまうのです。
「私、帰る」
うんと呟いて、私は笑いました。彼女も笑ってくれような気がします。
縁側に出て行く彼女の背中に私は声を掛けます。
「名前聞いていい?」
彼女はこちらを振り返って、私の目を見ました。そして笑いました。
「ゆうちゃんって呼んでくれてたやん」
「そうやった」
ゆうちゃんと呼んだ記憶は蘇ってはきませんでした。
ゆうちゃんがいなくなってからも暫く私はここにいました。ただ芒と立っていました。
大きく伸びをしてお屋敷を出ました。そして小径を進んで駄菓子屋の前に立ちました。
駄菓子屋はなくなっていました。
小屋のような草臥れた小さな店は跡形もなく消え去り、そこにはガラス張りの小洒落た喫茶店がありました。こんな時間から既に開店していましたが客は一人もいません。
じっと中を眺めているとお婆さんがガラスの扉からひょっこり顔だけ出して「どうぞ」と皺々の手でこちらを招きます。
中に入ろうとしたのですが私は気付いたのです、鍵以外何も持って来ていない事を。
「また来ます」
勢いよく頭を下げて逃げるようにその場から離れました。
手持ちがないのだとは言えませんでした。
ボサボサの髪と皺だらけのスウェットを着て居る事が、急に恥ずかしく思えたのです。
今直ぐ熱いシャワーを浴びて化粧をしたいと思いました。
今度は小径は通らずに大通りを通って自宅に戻りました。
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