秘密の小径

檀ゆま

第1話 まるでダンジョンでした

 そこはまるでゲームに出てくるダンジョンでした。

 誰もが通る場所だというのに、私だけの秘密の抜け径のように子供の時分は感じていました。何かが起こるような予感が胸を躍らせていたのです。

 二階建ての木造アパートの自宅を出て直ぐ、工場と小さな一軒家の間に在るその小径は左右に雑草を茂らせて二十メートルほど真っ直ぐに伸びていました。

 入り口には柿の木が植えられていて秋になると実が生り、私は弟とこっそり柿を穫り取って食べたのでした。それは母がスーパーで買ってきてくれるものよりもずっと小さく甘みのないものでしたが、とても美味しく感じていました。弟との秘密の共有が嬉しかったのかも知れません。

 その小径を抜けると駄菓子屋がありました。煙草のお遣いを頼まれると決まってその駄菓子屋で用を済ませ、お釣りを拝借して飴玉を買って舐めながら帰ったのです。糸に繋がれた飴をドキドキし乍ら、大きいものでありますようにと慎重に選んでいたのは今でもよく覚えています。駄菓子屋さんという存在はいつの間にか見掛けなくなりました。少し大きなところでは海老煎餅の間にたこ焼きを挟んでいるタコ煎が売られていて、私はそれが大好きでした。思い出すと食べたくなります。口の中にソースとマヨネーズが絡み合ったような味が広がり唾液が溢れます。

 その径は昼夜問わずとても暗いのです。そして雑草が生い茂っているので虫も沢山いて、どこか薄気味の悪い径なのです。

 私はそこが好きでした。

 お化けが出てきそうだというのに怖いと思っているのに他にも径はあるというのに、そこは蠱惑に私を招くのです。

 いつ頃からでしょうか。

 私はそこを通らなくなりました。

 小学生の頃は行き来していたように記憶しているので、中学生頃からでしょうか。いえきっと中学受験の為に塾に通い始めてからでしょう。夢現のような魔法が生きていた子供時代は受験戦争という現実を目の当たりにして終焉を迎えたのです。

 第一の子供時代の終わりをサンタクロースの正体を見破った小学二年生の頃だとすれば、第二の終わりはこの時です。

 物語は空想であり現実ではないとはっきりと意識して漸く、ダンジョンは暗くて虫の多い厭な唯の小径に成り下がったのです。

 高校を卒業しても未だ私は第三の子供時代の中にいました。

 女優という夢を追って上京しました。成功した自分の姿を思い浮かべていたあの頃は夢と希望で満ち溢れ、どんな事でもやってのけられるという自信がありました。

 第三の子供時代の終わりは今です。

 夢追いの落伍者として帰阪しました。

 実家に舞い戻る事はどうしても背後めたく、実家から徒歩五分ほどの場所で一人暮らしを始めました。大口を叩いて家を出たものの何の成果も出せずに逃げ帰ってきたのですから、これは恥なのです。

 私は負け戦をしたのでした。

 鍬を屁っ放り腰で掲げて鉄砲を構えた軍隊に向かって雄叫びを上げ乍ら一人で走り込むという無謀な戦でした。俯瞰して見ていた大人達は敗走する未来を見ていたのでしょう。だから今の私の状況を如何とも感じていないに違いありません。

 誰一人として私の背後めたさなど露程も気になど掛けていないのでしょう。

 それでも私は勝ち戦だと信じて勇往邁進したのです。惨敗という結果には大変がっかりしました。

 小学生の頃から私は賞などを頂戴した事もなく、中途半端な結果しか出した事がありませんでした。中学生の頃に陶芸のコンテストに出した渾身の作品すらも、おまけのような佳作という不甲斐ない仕儀に至りました。成績も特に悪いという訳ではありませんでしたが良くもなく、当然ですが一番になどなった事はありません。

 いつだって私は不完全な存在でした。まるで尻尾を描き忘れてしまった猫です。

 落伍者は惰眠を貪ります。いいえ、違います。それでは私以外の落伍者仲間に失礼というものです。私という人間が怠けるのが好きなだけなのです。

 そうは云っても生きていく為にはお金を稼ぎ出さなければいけません。それほど多くない貯金は無職の人間を養うには不充分です。

 帰阪した私は仕事探しに奮闘しました。直ぐに仕事先は見つかるのですが「これは私の仕事ではない」などと見苦しい言い訳をして自分を賺しては辞めてまた新しいところで働いては辞めてを繰り返しました。

 私は社会不適合者だったのです。

 なんと怠惰な人間なのでしょうか。

 自分自身の残念な性質に私はすっかり悄然としてしまいました。

 早朝ごみ収集の車が通る頃に布団に入り、寥々たる夕暮れに何処からともなく流れる『夕焼け小焼け』のメロディを目覚まし時計にして起床するという生活にも倦怠を覚え始めていました。

 何事に関しても私は飽き性なのです。

 唯々諾々と惰気に身を委ねていては私の脳はすっかり蕩けてしまう事でしょう。

 早朝五時に珍しく目が覚めました。

 昨日は早い時間から独りでお酒を飲み、サッカーの試合を見ている途中でーー確か前半戦の中頃だったでしょうか、ふわふわとした心地でベッドに倒れ込みました。何時に眠ったのか定かではありませんが、睡眠時間は落第点を取る程欠闕しているのは明白です。試合の開始時間は深夜三時だったのです。

 けれど頭はよく冴えています。

 本来の私は目標までの努力を惜しまない人間だった筈です。杯から溢れんばかりのやる気に満ちていて、瞳にはきらきらと光が宿っていた筈なのです。決して腐って異臭を放つ魚の様な目をした人間ではありません。

 今の私は私であって私ではないのです。

 重たく薄い空気の世界には変革が必要です。今こそ奮起して革命を起こさなければならないのです。異国の偉い博士が言っています、少年よ大志を抱けと。私は少年ではないけれどそんな事は関係ないのです。何もしなければ何も起こりません。当たる可能性の低い宝クジと云えども、先ずは購入しなければ夢さえ見れないのです。

 仕事を探そう。

 そう確かに思ったのです。

 しかし無精癖は筋肉を通り越して血管や神経そして骨にまで染み渡っておりました。キッチンの換気扇の下で煙草を呑んでいるうちに、燃え盛った決意が鎮火していきました。私の決意表明は往往にして塵芥となってしまいます。

 二本目の煙草に火を点けて私は自分に言い聞かせました。

 とにかく外に出かけよう。

 この煙草を吸い終わったら家の外に出ようと心に決めました。

 結局私は三本目を吸い終えて漸くパジャマを脱ぎました。

 化粧もせず髪も梳かさず真っ黒な長袖のスウェットを身に纏い、家の鍵だけを持って出掛けました。靴下を履いた上で、キャラクターが描かれているサンダルに足を通しました。

 足先が冷えるのは厭なのです。

 今朝は鏡すら見ていません。女を捨ててしまったのだなあとぼんやり考えました。

 前の仕事を辞めたのは桜の花が無残に散り緑が差してきた頃でした。

 外に出ると少しひんやりとした風が吹いていました。夏はいつの間に過ぎ去っていたのでしょうか。貯金の残高が急に不安になりました。一度家に引き返して通帳を持ってこようかしらと逡巡しましたが止しました。既にマンションの階段を降りエントランスホールまで来てしまっていたので、また階段を上るのだと思うと面倒だったのです。このマンションにはエレベータがありません。

 犬を引き連れてランニングをしているおじさんがこちらに向かって来ます。背を向ける事が厭でそちらに歩くことに決めました。こんなところで負けず嫌いを発揮するのは無駄以外の何物でもありません。

 とぼとぼと歩きました。

 芒としていると実家の木造アパートまで来ていました。ふとあの小径が目に止まります。柿の木は無くなり雑草が増えている様な気がしました。

 入口に立ち出口を見詰めました。

 欲動に支配されて小径に足を踏み入れました。

 凸凹の地面はとても歩き難く、左右から伸びる雑草が歩くべき径を圧迫している様で少し息苦しく感じました。それほど狭い道ではないのです。だけれど左右の壁が迫ってくる様に感じるのです。

 半分くらい進むと右側が開けます。大きな平屋があるのです。それは私が子供の頃からありました。人が住んでいるのか疑わしい寂寞の香りが漂うお屋敷です。ぼろぼろの木造の柵が僅かに開いていました。

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