誤解しないでほしい、乱心じゃない。


「でも、それって人知を超えたブラックボックスの中を弄ってやろうってことでしょ? 無理だよ。僕らどころか、人類にとって無理な話だろ?」


「いんや、一人だけ、出来るやつがいるかもしれない。安西先生の数学の授業覚えてる? フェルマーの最終定理」


 中学三年の頃の、柔和な先生の声を思い出す。


『あの数学者のフェルマー自身は、フェルマーの最終定理を本当に証明できたのだろうか?』


 数学の授業もたいがい退屈なのだけれど、先生が話す本筋から脱線した数学者のエピソードだけは、わりと好きだった。特にその話は印象深かった。


 むかしむかしのお話だ。

 十七世紀の偉大な数学者、「数論の父」ことフェルマーは、愛読書であるディオファントスの著書『算術』に、こんなメモを書き残した。


 ──私はこの定理について真に驚くべき証明を発見したが、ここに記すには余白が狭すぎる。


 思わせ振りな言葉とともに、シンプルな問い一つが残された。

 すると数学者たちは、「だったら俺が解いてやる」と、その問いに挑戦しはじめた。

 さいわい、問いの内容自体は、中学生で習う三平方の定理さえ理解していれば良かったものだった。誰もがすぐ証明できると思っていた。

 それから十年、五十年、百年と過ぎる。

 数学者の人生をいくつも飲み込み、それでも解けなかった。


 結局、その証明への道のりはとても険しく三世紀もの時間が必要だった。

 しかも解かれてみれば、二十世紀の各分野の最新テクニックを総動員して巧みに繋ぎ合わせ、やっと証明に至るほどの難問。

 つまり、そのパズルを解き明かすことは、数学の限界を押し広げる行為と等しかったのだ。


 ついに解かれた問題と、その犠牲になった時間や労力を思い起こしながら数学者たちは、ふと思った。

 こんな難問の王様みたいな問いに対して、フェルマーは本当に答えを用意できたのだろうか。


「──おれは出来たと思うんだよ」


 トキオは自信満々に、そう言った。

 先生は、フェルマーは早とちりでもしたのだろうな、と結論づけていた。


「なんで、そう思うの?」


「これからおれが頼るのは、そういう類いの話だから。時代に一人、とんでもない知の巨人がいないと成立しない作戦だから。出来てなきゃ、困る」


 どさりと本が机に詰まれた。

 タイトルは「エンリーケス = セルジ自伝」「超知性体に最も近かった男」「タイムマシンの父 未来を語る」「超知性体以前の天才たち」エトセトラ、エトセトラ。

 どれもこれも、特定の人物──エンリーケス = セルジ博士に関する書籍だった。


「よし、調べるの手伝ってくれ。これ全部な」


 ◇◆◇◆


 セルジ博士は、超知性体が生まれる以前のタイムマシン実用化研究の第一人者だった。

 超知性体に最も近い男。彼は二〇四九年の学会でこう語った。


 世界線逸脱回避支援レーンキープアシスト

 緊急時間遡行エマージェンシータイムリープ


『この実用化について真に驚くべき発見をしたが、これを述べるには今日の時間が足りないんだ』


 その場にいた聴衆は、出来の悪いジョークとして理解した。そして、そのエピソードを知る僕らも、そう理解している。

 だって後にも先にも、超知性体しかタイムマシンのブラックボックスの中を理解し得ないと思っているからだ。


 でも、トキオは信じてる。というかその唯一の可能性に賭けている。


 ブラックボックスの中にある、この二つの機能をオフにすることで、歴史からの逸脱を可能にし、超知性体が奪った自由な未来を取り戻す。時間のハイウェイから荒野へ行ける。


 もし、あの言葉が本当なら。

 もし、セルジ博士にとってタイムマシンがブラックボックスではないのなら、なんやかんや二つの機能を引っこ抜くのも可能なんじゃないか。

 それがトキオのあらっぽい仮説だった。


「だから、まずは彼に接触しないといけないのだけど、問題がある」


 それがカーアクションしなければならない理由だった。トキオは地図を指で指し示し、すーっと道をなぞった。


「タイムマシンを出現させられる場所は、まだ限られていて、博士がいるサム研究所から結構離れている。滞在できる時間は十時から十時半となっているから、思いっきりこのコースを飛ばさないとならない」


 ◆◇◆◇


 僕はカフェのテーブルに置いてあるチケットを手繰り寄せた。

 タイムトラベルのチケットには、滞在できる時間帯が書かれていた。十時三十分になったらタイムマシンは僕らの未来へ跳んで帰る。


 トキオはカフェの壁掛け時計を一瞥する。十時二十七分。


「じゃあ、十一度目の正直と行きますか」


 とトキオは言って立ち上がる。そして、うおりゃとテーブルを思いっきり蹴飛ばした。

 驚いて駆け寄る店員を、僕は心の中で謝罪しながら殴り飛ばす。誤解しないでほしい、乱心じゃない。何かしら過去が改変されるような奇抜な行動をしないと再挑戦ができなくなるから、仕方なくこうしてる。


 駐車されたビートルから、クラクションを鳴らされる。冷ややかな女性のアナウンスが脳内にこだまする。拡張現実コンタクトに、メッセージが表示される。


 ──警告。世界線の逸脱が許容範囲三%を超えました。緊急時間遡行エマージェンシータイムリープを開始します。


 視界がぶれる。ぐらりと立ち眩みを濃縮させたような感覚を味わい、よろける。尻餅をつきながら、トキオに手を伸ばす。


「次は、決める!」


 バチンと手のひらを弾かれる、ハイタッチ。視界が目映い。


 そして──。


 二〇五〇年、九月九日。晴天。

 市街地にあるサム・ストリートの緩い下り坂を、小型乗用車ビートルで疾走している。運転手はトキオ。なぜ男子高校生が運転しているかは、問わない。いや、もう既に知っているだろう。


 自由な未来へ、抜け出す為だ。


 赤信号を無視して、御婦人をギリギリでかわし、ちょっと歩道に乗り上げてゴミバケツを弾き、がっつり対向車線にはみ出して前方の車を抜く。僕はラリーのコ・ドライバーみたいに、てきぱきトキオに指示を出して行く


「よし、次はブレーキ!」


 交差点に入る直前に、急激なブレーキ。シートベルトが胸に食い込む。早る気持ちだけ先走ってる気がする。トレーラーが過ぎ去って、前方がばっと開ける。


「いけ、アクセル全開!」


 一気に加速する。早った気持ちに身体が追い付く。今までが嘘のように道が開けている。これなら間に合いそうだと僕は安堵した。


「もう少しだな」


 数ブロック先にあった研究所は、もうすぐそこ。散々ループした甲斐があった。ふと僕はある疑問を打ち明けようと思った。


「うん、もう少し。あのさ。そういえば、なんで僕だったんだ? よく考えてみれば、助手席の人間なんて誰だって良かっただろうに」


「そりゃあさ、退屈そうにしてたからな。休み時間に寝たフリしてるくらいだしな」


「え?」


 胸がぐっと締め付けられる感覚があった。


「なぁ、おまえ教室で仲間外れにされてただろ」


 トキオにはバレていたようだった。


 

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