夜の猫ども


「めしあがれ」


 と、ハナは言う。いただきます、もなしに、猫どもは食事を開始する。


 ハナは猫どもの丸まる背中に、いかがかな?と感想を求めるけれど、どいつも食うのに夢中ではふはふ言うばかりだ。

 それを返答として受け止め、ハナは満足そうに、ふふ、と笑う。


「今日もいい食べっぷりだ」






 ハナは野良猫に肉を与えている。

 僕がそれを見つけたのは、まだ梅雨入りしていない少し寒い夕方のこと。通りかかった高架下に、猫数匹と、ハナがいるのを見つけた。


 錆び付いた遊具が点在する草むら。数十分に一回、高架橋を電車が走る以外は音もない。

 ひっそりとしたそこに猫を集めているハナの様子は、どこかへ繋がる脱出口でも掘っているかのように、人知れず何かを遂行しているように見えた。

 ハナはずいぶん長いこと学校に来ていなかったし、会話を交わすような仲でもなかったのだけど、なぜかそうしたいと思って声をかけた。


「なんで肉なの?」


 猫なら魚だろ、という知識から出た質問に、ハナはすうっと顔を上げた。そして、目の上に垂れる髪の隙間から僕を見て、言った。


「肉のが、強くなるから」


 野良猫を、強くする。よく意味がわからなかった。でも、納得してしまった。ハナの声が、この世の底をなでるように透明だったからだ。嘘じゃない、と思った。

 それ以来僕は、よくここに来るようになった。


 ハナはいろいろな肉を猫どもに与えていた。火を通した状態の時もあれば、生の状態の時もあった。薄切りの時もあれば、骨付きの時もあった。

 ハナはいつも楽しそうにそれらを皿に載せ、猫どもが食う様子を嬉しそうに眺めていた。それは可愛がるよりもっとしたたかで、しかし純粋で丁寧な飼育のように見えた。


 猫の餌付け現場への僕の立ち入りについて、特にハナが迷惑がっている様子はなかった。


「猫はね、喧嘩しても、勝ちと負けが決まっちゃえば、それ以上の攻撃はしないんだって。弱い者いじめなんて無駄な労力だってこと、知ってるんだねきっと」


 ハナが口にするのは猫の話ばかりで、自分のことは何も話さず、僕についてのことも尋ねてこなかった。

 僕が額に血を滲ませていようと瞼を腫らしていようと、ほんの一瞬そこに焦点を留めるだけで、僕の置かれた状況についてなにも詮索してこなかった。

 それがハナの優しさなのか無関心によるものなのかはわからなかったけれど、聞かれないことによって、僕は安心してこの高架下に来ることができた。


 雨が毎日降り続けるようになると、高架下で雨をしのぐ猫の数が増えた。肉を食えるという情報が、猫どもの間で拡散され、共有されたのだろう。


 そのうちにハナは、集まる猫に何も与えない数日間を作るようになった。猫を空腹にさせ、肉への飢餓感が生まれ始める頃、群れの中に突然獲物が投げ込まれるかのように、盛大に肉を振る舞った。

 そんな中で猫どもは、肉への執着心を強めていった。それは奴らの食いっぷりを見ればわかった。餌を食う猫と言うよりも、獲物に食らいつく獣のようだった。肉ばかりでなく骨すらも、音を立てながら噛み砕き、飲み込んでいた。


 そうして、猫どもは力を得ていった。みるみる体はでかくなり、目には生命力が漲り、鳴き声は低く重く、踏み出される足の一歩にさえ猛々しさが宿った。

 肉が燃えているのだと思った。ハナの与える肉が奴らの体内で燃料となり、命それ自体を強く燃やしているのだと思った。


 ハナはますます楽しそうに餌付けを続けた。


「猫は正しいんだ。だから猫は、平和に、幸せに暮らさなくちゃいけない。幸せに暮らすためには、強くならなくちゃいけない。弱い者いじめのためじゃなくて、本物の敵をやっつけるためにね」


 そう言いながら猫の背を撫でるハナの手は優しく、でもなぜだかそれこそが、ハナの弱さのような気もした。猫はどいつも幸せそうに喉を鳴らし、ハナのその手に体を擦り寄せた。


 僕は錆び付いて動かなくなったシーソーに座って、その様子を見ていた。そこに、満腹になったらしい猫が一匹擦り寄ってきて、長い尻尾を僕の足に巻き付けた。

 僕は手を伸ばした。そいつは喉を鳴らして、僕の手の甲にある傷を舐めた。


 猫の本物の敵ってなんなんだろう。

 強くなった猫たちが、巨大な敵に食ってかかるところを想像する。それは瞼の裏ではっきりと像を結ぶ。牙を剥き出した猫どもの塊は、燃え上がる闇のような姿をしていた。


「君にもいるよね、敵」


 ハナの声に顔を上げる。ハナは猫の中心に立って、僕の方を見ていた。猫に向けるよりも少し冷えたその顔を見て、ようやくいろいろなことを理解した。

 僕は頷いた。






 強く雨の降る夜、僕は少年Aを殺した。

 親の口座から盗めるだけの現金を盗んできた、これを最後にもうやめてほしいという訴えの元、少年Aを高架下へと呼び出した。

 猫どもの気配が、草むらから覗いていた。きっと奴らは暗闇の中でこそ、その鋭く猛る本能を研ぎ澄ますのだと思った。

 かすかな光を反射して、いくつかの目が光った。奴らは静かに、ひと声鳴いた。


 猫は正しい。猫は幸せに暮らさなければならない。幸せに暮らすためには、強くならなければいけない。弱い者いじめのためではなく、本物の敵をやっつけるために──。


 僕は手にしていた紙の束を地面に落とした。雨に濡れるそれを、悪態をつきながらも拾い集めようとする少年Aの後頭部へ向け、僕は錆びた鉄材を何度も打ち付けた。シーソーの部品だったそれは、表面こそぼろぼろと剥がれたけれど、内部にはまだ十分な強度が残っていた。

 僕の両腕に力を与えたのは怒りでも憎しみでもなかった。もっと静かで確かな意思だった。弱い者いじめをするくだらない人間を、今すぐやっつけなければいけないとわかったからだ。正しさが僕を、強くした。


 電車が高架橋を走り、轟音と振動が頭上から降った。僕が立てる音や少年Aのうめき声は車輪に轢き潰されて粉々になり、いよいよ強さを増した雨音の中に飲み込まれて消えた。


 僕を殴る少年Aはいつも楽しそうだったので、加害というのは楽しい行為なのだろうと思っていたけれど、実際のそれは特別愉快でもなんでもなく、僕はひどく疲れてしまった。

 座り込んでいる僕の横をすり抜け、猫どもが少年Aに群がり出した。奴らの姿は闇の中で増幅し、ひと塊の巨大な獣のように見えた。奴らは僕によって下処理が施された少年Aを、食える肉であると判断した。

 肉を前に、奴らは本能に従う。すべては自動的に作動する。そしてそれは、とても正しい。


 少年Aは、あっという間に残骸となった。残された内臓の断片は、近くの土を掘って埋めた。

 全てを終えた後、僕は全身に雨を被り、体中についた血を洗い流した。草むらの血がすべて泥と混ざって流された頃、ゆっくりと夜が明けた。








「君たちほんとに昼寝が好きだよね。幸せそうだなぁ」


 今にも眠りそうな顔をした猫を撫でながら、ハナが言う。

 晴れ間から差し込む陽射しが、草むらにわずかな日向を作っていた。猫どもの丸い背中が、そこにいくつも寄り集まっている。


 僕は遊具の足元へ潜り、錆び付いたネジを回す。廃材と呼べるほど老朽化したそれは、僕にも扱える簡単な工具で、部分的になら解体することができた。僕はそうして、僕らの糧となりそうなものを調達する。

 ハナは続ける。


「猫はね、たくさん寝て、エネルギーを溜めておくんだって。次の獲物に、力一杯食いつけるようにね」


 僕らは夜の猫どもと、本物の敵をやっつける。育てた鋭さで、骨ごと全部粉々にする。

 それから、そんな悪など最初から存在していなかったかのように、何事もなく、僕らを生きるのだ。


 僕は遊具の下から這い出た。膝についた泥を払って、立ち上がる。


「ハナの敵はなに?」


 ハナは僕を振り返ると、少しだけ笑った。


〈夜の猫ども・了〉

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