サンダル
ノックしないとかバカだと思う。
お兄に漫画を返しに来たとかでバタバタと隣の部屋に入っていったと思ったら、ついでみたいに私の部屋にも入ってきた。ノックなしで。バカだと思う。
「宿題終わる気配なくてやばいんだけど」
そいつのいらん報告を無視し、私は寝転がったままスマホをいじり続ける。出てけとか普通のことを言うのも悔しいので無視で押し通す。
なにこの部屋暑っ! とか言って勝手にリモコン取って冷房の温度下げたりとかするし、喉乾いた、拝借っ! とか言って勝手に私の麦茶飲み干したりするし、そいつの入室30秒にしてすでに私やばいかもしれない、イライラが。
昔からこうだった。家が徒歩50歩の所にあるのをいいことに、ちょっと宿題見せろだの殺虫剤貸せだのですぐ家へやって来る。それがあまりにも普通だったから、逆に私が苛立ってることの方が不自然なんじゃないかとすら思える。
いや、きっと不自然なんだと思う。私の方が変なのだ。なんでこんなにイライラするのか、自分でもよくわからない。
「なんか受験生のくせに優雅にしとんね」
してないし。午後から夏期講習だわ。復習終わってないし、数学やばいし、やらなきゃいけないこといっぱいなんですけど。どかどか踏み込んでくる誰かのおかげで、束の間の逃避時間がぶっ壊されてるんですけど。
「そんで
聞くかそれ。今一番嫌な話題。
体を起こし、イヤホンを手に取って耳に突っ込む。音楽を流し込んでいろいろが侵入してくるのを防ごう。最近発見したスリーピースバンドがすこぶる好みであったので、その音楽で頭を満たそう。
「最近なんかいいバンドある?」
声でか。私はボリュームを上げる。
背後からスマホを覗いてくる気配。体をずらそうとした瞬間、すぽん、と右耳から強引に引き抜かれるイヤホン。
愚行すぎて呆気に取られた。痛いし。もうそれを自分の耳に差し込んで私と同じ音を聴いておられるし。
いや、おかしいから。距離感おかしいから。めっちゃ顔近いから。
私は少しでも距離を離すために左耳に入れていたイヤホンを右耳に移す。ついでにさらにボリュームを上げてやる。聴けや。わかれやこの良さを。
「あーボーカルの顔がだめ」
動画を観て一言だ。違うだろ、聴けよ音を。
「あーバンド名がだめ。女子受け狙い」
喋んな聴け。
「なんなんこのベースのパーマ」
力いっぱいコードを引っ張り、うるさいそいつの耳から引き抜いてやった。
今日初めてちゃんと顔見たけど死ぬほど日焼けしてて一瞬違う人間かと思った。さぞや楽しい夏休みを過ごされてるんですね。どこ行ったんですか海ですか。友達とですか。いつも楽しそうで羨ましい限りだわ。
そいつは、私の苛立ちの矛先が自分の顔に向けられているとも知らず、きょとんとした表情で私を見ている。
前回会ったのは、終業式の日の夜だった。三角に切られたスイカを大きなお皿に載せてやってきたそいつは、どかっと部屋の真ん中に座ってスイカをかじり、種をぷっぷと出しながら、なんか突然将来の話をし始めたのだ。
跡取り息子として家業を継ぐこと。そのことに不満はないこと。地域の活性化のために貢献したいこと。この小さな町が好きなこと。そこまで喋って、スイカの一切れ目が終わった。
ただ用意された道を進むこと。ずっとこの町で生きていくこと。そのことに不満はないこと。でもどこかもやもやとした思いがあること。そこで、スイカの二切れ目が終わった。
三切れ目に伸ばされたそいつの手は、途中で止まった。
「今の自分に、今後の自分の一生を決めるような選択、できるのかなって」
ぽつりと落ちたそいつの言葉。それは、私の気持ちとぴったり重なるものだった。
いつでも明るく軽快に進むそいつの目にも、未来は遠く、不確かなものとして映っているらしい。そのことが、なんだか妙に私を安心させた。
ほっとしたような気持ちになって、私はただ無言で、スイカをしゃくしゃくとかじった。
それから夏休みが始まって、そいつは一度も私の部屋へは来なかった。
一度だけ、庭先で会った。夏期講習に向かうために自転車に跨った私の耳に、そいつの声が隣の庭から届いた。
「おーう、どこ行く」
「塾」
「おぉ、さすが受験生。頑張れよー!」
垣根の向こうから、楽しげに、いつもの笑顔で、ぶんぶんと手を振っていた。
帽子を被っていたから、どこかに行くんだろうなと思った。私が向かう、冷房の効いた教室なんかじゃなく、ちゃんとした、夏のある場所に行くんだろうなと。
全身で光を浴びている、そいつの姿を見て思った。あいつはきっと、未来への不安なんていう重たいものを、体の底に抱えたまま日々を送るなんてしない。あの夜に口にした不安なんか、スイカの種をぷっぷと出すついでに、一緒に吐き出して片付けてしまったのだ。
あぁそうだった。私はよく知ってる。あいつは、そういう奴だ。
私は手を振り返すこともせず、ペダルを踏み込んだ。
無性に腹が立った。あの時の私の気持ちを返せ、と思った。窓の外でどんどん夜になっていく空を見ながら、私の不安がちょっと溶けたみたいな気持ちになったのを返せ。
バカみたいに自転車を漕いで、笑えるくらい汗だくになった。その夏の最高気温を記録した、アホな午後だった。
「でもこのボーカル、声は好き。夏帆が好きそうな声だな。俺も好き」
すぐ近くで聞こえるその声に、私は引き戻される。
そうだろ、声がいいんだよ。なんだよ、わかってんじゃんかバカやろう。
「俺、とりあえず専門行くことにしたわ」
「は?」
私が驚いて顔を上げたことに、そいつはにやりとする。しまった、くそ。
「一回ここを出てみようと思って。勉強したいことがあるんだ。この前、いつだっけ、夏休みの前。あぁ、終業式の日の夜だ。夏帆といろいろ喋ったじゃん、長いことさ。あん時、思ったんだ。そんで最近、オープンキャンパスとか、行ってきたわ」
なんか、黙る。へぇ。
「そゆこと」
真っ黒なそいつは得意気に言って、床の上に足を投げ出す。ハーフパンツから出ている足は顔と同様焼け焦げている。
無遠慮に足を伸ばすので、そいつのつま先と私のつま先が当たりそうになる。私はすっと足を畳み、両腕で膝を抱える。イヤホンを耳から抜く。
「どこの?」
聞いてしまう。
「T市」
あぁ。
「夏帆は?」
聞かれるのか。
「受かればN市」
あぁ、と息を吐かれる。
「どっちにしろ遠くなるな」
なにそれ。
床の上。伸ばされたそいつの足の甲に、サンダルの日焼け跡があった。まるでまだ履いているみたいに、くっきりと。そこに私の知らないそいつの夏があることが、なぜだかたまらなく悔しかった。
「ま、でも隣の県だし、すぐ帰って来れるじゃん。俺も帰ってくるし。そしたら別に、すぐ会える」
さらりと、そいつは言った。それからなにかをごまかすみたいに、変な顔で笑った。
その顔を見ながら、いつもこんなふうだな、と思う。近くにいるのが当たり前で、いつも突然現れる。朝でも夜でも、こっちがなにしてようとおかまいなしに、ノックもしないで入ってくる。それとまったく同じ軽さで、そいつは未来を口にした。
なーんだ、と思った。ふわっと、気持ちが軽くなった。
急に、目の前にある遠くて長い距離や時間を、ぽんっと飛び越えられるような気がした。夏期講習も数学も受験も、夏と秋と冬を越えた先にある春さえ、50歩くらいで飛び越せるみたいな気持ちになった。
全部が、簡単なことに思えた。ほんとはそうじゃないとしても、今はそう思える。
それを証明しておきたくて、私は目の前の夏真っ盛りの顔に近付いた。どちらかと言えば攻撃に近いような強さで、自分の口元を、そいつの同じ場所に押し当てた。
「なひっ!?」
顔が離れた瞬間に、そいつはまぬけな声を上げた。
「なひってなんだよ」
笑える。
「なん、突然さ、なんなん」
どうだ、思い知れ。女子の部屋にどかどか踏み込んでくるからだ。せいぜい反省したらよろしいわ。
一人で慌てているそいつの足を蹴るみたいにして、するっと足を伸ばした。つま先には、いつ塗ったんだか忘れたオレンジ。
もう真ん中まで来てしまった夏。あと半分しかないそれが、途端に惜しくなる。
海だ。
波に足をさらす。それがしたい。半分剥がれたオレンジを綺麗に塗り直し、サンダルで海へ行こう。
ふわりと浮かんだそれがとても名案に思えて、私はまた、そいつに顔を近付ける。
「
は? と、そいつはますます目を丸くして、しばらく静止する。それから笑い出す。いろいろが沸点に達したみたいだ。そこにはちょっと呆れた感じと、嬉しそうな感じがあった。
そしていつものように答える。サンダルを引っ掛けた、足先みたいな軽快さで。
「いいよ。いつ?」
〈サンダル・了〉
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