スイッチ



「ほんとに大丈夫だと思う?」


 およそ20本をごりごりし終わった時、僕は思わず口に出した。

 詠太えいたはごりごりの手を止め、うんざりした顔で僕を見た後、大袈裟に溜息をついた。


「じゃあお前やめる? 別にいいんだぞ残っても。その後やることと言ったら死体処理だけになるだろうけど、そっちのがいいならもうやめろよ」


「違うよ、やめたいんじゃなくて、ほんとに成功するのかなって」


「アホ。成功させるんだろうが」


 詠太は呟くと、またごりごりを再開する。


「俺は晃仁あきひとのことなんか嫌いだよ。でもあいつの言ってることはいつも正しい」


 うん、と僕は頷く。


「だからこの作戦もあいつの言う通りにすれば絶対に成功する。させなきゃいけない。それ以外に方法がないことは、ここにいる全員がわかってる」


 うん、と僕は頷く。


「だから無駄なこと考えずに続けろよ」


 うん、と僕は頷く。次の一本を手に取り、穴に差し込み、ごりごりとハンドルを回す。

 洞窟のように暗い教室の中、床に置かれたいくつかの懐中電灯。僕らの影が壁で動く。


 ここに閉じ込められたのが何日前なのか、確かなことはわからない。


 僕達はここで勉強をしていた。受験に向けての問題を、繰り返し繰り返し解いていた。

 反復練習。問から解へ。深まっていく理解。より速く、正確に――。そうした段階を経ていくことで合格が近付くのだと、先生達は言った。

 僕達はそれに従った。僕達は生徒で、ここが塾だからだ。


 お前達はまだ本気ではない、と先生達は言った。本気になってやっていないから、まだまだ合格は遠いのだと。人間は、本気になればなんでもできるのだと。

 だから僕達は机に向かうしかなかった。繰り返し繰り返し、問題を解いた。繰り返し、繰り返し……。


 そうしているうちに、僕達は塾構内に閉じ込められた。回転を続けるうちに速度を増した流れの中に、否応なく絡め取られて流されるみたいにして。


 教室の壁にある時計の針はずっと回っていた。でもそれはなにも刻んではいなかった。ただ、滑るように回り続けているだけだった。

 黒板の上にある、受験日程開始までのカウントダウンを示すプレートは、何回時計の針が回っても、『176』のままだった。


 この繰り返しの中には、出口に向けた回路がない。それに気付いたのは、晃仁だった。やっと状況を把握した僕達は、脱出のための計画を立て始めた。それがたぶん、三日前のこと。


「俺が一番嫌いなのは木崎きざきだ。あいつを殺りたい。どうにか見つけ出して、ぶすっとやりたい」


 ごりごりし終えた一本を穴から引き抜き、右手に握り、詠太はその先端を宙に向ける。片目をつぶり、目標物へ刺すように、それを突き出す。尖った先端がひゅっと、詠太と僕の間の空気を裂く。


「もう区別なんてつかないよ」


 僕は言う。少し前から、先生達は同じ顔になった。同じことの繰り返しの中に、人間の個としての顔が溶けてしまったみたいだった。


「いや、俺にはわかるね。あいつのおっさん臭ならわかる気がする。絶対殺ってやる」


 詠太は新しい一本を取り、息の根でも止めるみたいに穴にぶっ刺し、力を込めてごりごりやる。狩猟時代の人類が、火を起こす時の真剣さで。


 僕は誰を殺りたいのだろう。嫌な先生の顔はたくさん浮かぶ。でも詠太のように、その顔を殺りたいとまでは思わない。僕はテスト用紙に向かう時と同じように、殺るべき先生を前にしても、本気にはなれないのかもしれない。


「進行状況かくにーん」


 ガラガラとドアを開けて、懐中電灯を持った晃仁が入ってきた。完成したのが何本なのか、そこにいる全員に聞き、不足分を備品室から持ってくるように指示を出した。


「わかってると思うけど確認ね。主力はカッターだけど、それはとどめにしか使えない。本数も限られてるから、各エリアの班長のみが使用ね。そこに持っていくまでの、これが一番大事だから。わかるね? まずは、目」


 右手に削り終わったばかりの一本を持ち、左手で自分の目を指差しながら、晃仁は緊張感のないふわふわした声で言う。それでも身長が高いせいで、僕達はそれを上から被るように聞くことになる。


「わかってるよ」


 苛立ちを含んだ、でも確かに従順な声で詠太が言った。晃仁はそれに、にこりとする。


「あいつらの間違いはさ、僕達のやる気スイッチをあいつらの指で押せると思ったことだよ。スイッチは他人に押させるものじゃない。自分で押すものだ。だよね?」


 なぜ晃仁を前にすると、みんなこうも静かになるのだろう。ただ一つわかるのは、晃仁の本気に、みんながちゃんと反応していることだけだ。


「よし。んじゃ、よろしゅうね」


 松明を掲げるかのように、晃仁は懐中電灯をひょいと持ち上げた。天井が一瞬、火に照らされたかのように明るくなった。その火の元について行けばいいと、そう思わせるような明るさだった。不安になることなんか、きっとないんだと思った。


 再び、ごりごりという音が響き始めた教室内。僕も次の一本を手に取る。


 次の瞬間。


 何かが何かにぶつかる音と、叫び声。晃仁だ。詠太が後ろのドアから廊下に飛び出る。


「てめぇ!」


 追って廊下へ出た僕の目に、晃仁の首を片手で掴んで持ち上げる先生の姿が飛び込む。そこへ、叫びながら突っ込んでいく詠太の背中。その背中が、先生に蹴り飛ばされて廊下に倒れる。


「は、配置解除! 見つけた奴からやっ」


 晃仁の声が途切れる。先生の手が、晃仁の首を握り潰した。

 立ち上がった詠太が先生に飛びかかる。先生は晃仁の体を無造作に落とし、詠太に向けて体を捻る。すぐに跳ね上げられる詠太の体。殴られたのか蹴られたのかさえよくわからなかった。

 その後ろには、講師室方向からやって来る先生達の姿が見える。同じ顔がぞろぞろと、こちらへ向かってくる。教室内から飛び出した生徒達みんなが、それぞれ手にした尖ったそれで先生達に向かっていく。


 僕達の作戦は、決行すら阻まれた。

 最悪だ。あんなに念入りに配置確認をしたのに。晃仁がはじめに殺られるなんて最悪すぎる。


 気が付くと、目の前に先生が迫って来ていた。先生という生物になってしまった、かつては人間だった生物。


 僕は動けなかった。ただ見ていた。


 僕に手を伸ばした先生の肩に、一本の腕が巻き付いたのを見た。次の瞬間に、先生の首から血が吹き出したのを見た。後ろから覗いた、血を被った詠太の顔を見た。


「お世話になりましたぁ木崎せんせー!」


 手にしたカッターをもう一度強く押し当てて引き抜く。先生は血を吹き出しながら詠太に振り返り、肘だか拳だかで詠太を殴り付けてその場に落とす。

 仰向けに倒れた詠太の顎を、先生の足が蹴り上げる。何度も、何度も。その足を詠太が掴む。体全部を使って、封じ込めるように。


 詠太が僕の名前を叫んだ。その顔に、先生から吹き出した血がどぼどぼと滴った。真っ赤に濡れて僕を見る詠太のその目の中に、さらに強く赤く燃える火が見えた。


 それは僕に引火する。あっという間に芯まで燃える。だから僕は火のついた指で、僕の中のスイッチを押す。


「先生!」


 僕の声に振り返った先生の目を刺す。石鏃のように鋭く尖らせた鉛筆の先端。僕が鉛筆削りで作ったそれ。

 深く突き刺すことはできなかった。それでも視界を半分は奪うことができた。


 詠太が体を起こして先生の足にカッターを突き立てるが、弾かれて廊下の上に落ちる。僕はそれを拾い上げる。血がついている。滑らないように強く握り、先生へと向かう。

 晃仁が指示していた頸動脈の位置。あごのラインの延長線上、耳の付け根から下五センチ。そこへと、刃先を突き付ける――。


 先生達の言っていることは正しかった。人間は、本気になればなんでもできるんだ。

 僕は僕の可能性に震えながら、握る右手に力を込め、一気に横に引いた。


〈スイッチ・了〉


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