一章 2
ハシェドは困惑顔だ。
「わからないな。父は知ってると思うが、おれや弟たちには、そういうことは話してくれないんだ」
「さようですか」
そのひとことで、クルウは会話を終わらせようとする。
こんな機会はめったにない。ワレスはあわてて、話がとぎれないよう補った。
「ハシェドには弟がいるのか」
クルウを見ていたハシェドの視線が、またワレスにもどる。今度はいつもの晴れやかな笑顔を見せてくれる。
「弟が二人。妹が二人です。弟妹はみんな父親似でして、兄のおれが言うのもなんですが、なかなか美男美女だと思います。おれが一番、ブラゴールの血を濃く継ぎました。母によると、おれは母の死んだ兄にそっくりだそうです。ただ……下の妹が、せっかく父似のきれいな顔をしているのに、肌の色が……女の子なので、かわいそうでなりません」
ハシェドの笑みがくもる。
口ぶりから察すると、その妹をとくに愛しているのだろう。
ワレスは紙巻きタバコをあきらめて、キセルに葉をつめながら言った。
「妹は可愛いな。おれの妹は三つで死んだが、今でも、あの子のお人形のような姿が目に浮かぶ」
妹の死を考えるときには、いつも、やるせない感情の昂ぶりを抑えられない。
だが、このときは、ハシェドをなぐさめるために、ごく自然に話せた。
自分でも不思議なくらい、妹が生きていたころ、彼女にそそいだ優しい感情だけを思いだす。
「小隊長の妹さんは、亡くなられたんですか?」
アブセスがたずねてくるのにも、
「ああ。病気でな」と、嘘をつくことができた。
ほんとうは酒びたりのろくでなしの父のせいで、衰弱死してしまったのだが。
その事実を知っているハシェドは、申しわけなさそうにワレスを見る。
「隊長……」
ワレスはハシェドの言葉をさえぎった。
「なんなら、おれが読み書きを教えてやろう。砦の文書で学べば、古い記録の魔物のこともわかって、一石二鳥。おれの勉強にもなる」
「ほんとですか?」
「その辞書は、ハシェド、おまえにやろう。アーの単語は、その都度、おれが教えてやるから、書きたしていくといい」
「そうします!」
ハシェドは嬉しそうだ。
そんなハシェドを見ると、ワレスも嬉しい。
「練習用紙は文書室から、反古紙をもらってこよう。そのうちには石板を用意するとして。今日のところは読みだけだな」
「はい」
すると、アブセスも言いだす。
「あの、隊長。私もご教授願ってもよろしいですか? 私は町の塾で習うていどのことはできるのですが、文書に使うような難しい読み書きは苦手ですので」
「よかろう。一人に教えるのも、二人に教えるのもいっしょだ」
「ありがとうございます!」
砦にしては平和な夜だった。その平和がいつまでも続くものでないことは、ワレスもわかっていたが。
証拠に、
「このところ、目立った怪事件がないので助かるな」と、ワレスが言ったとたん、ハシェドが妙なことを告げてきた。
「おれ、この前、聞いたんですが。薄気味悪い話を」
ハシェドはほかの隊のブラゴール人とも交流があるため早耳だ。
「どんな話だ?」
「まあ、砦で起こる事件で、不気味でない話なんてないですが。昨日、本丸で変死体が見つかったそうです。死んだのは正規兵らしいのですが」
「死体くらい、よくあるじゃないか?」
「体の一部ですよ。見つかったのは、胸から上だけ。獣にやられたにしては、おかしくて」
「どんなふうに?」
「魔物の仕業にしろ、剣で切られたにしろ、人間の胴が切断されるわけです。ふつうなら、あたりじゅう血の海になるはずです。なのに、この死体は一滴の血もこぼれていなかったんです」
「血を吸う魔物かな」
「そうかもしれません。それにしても、死体の見つかったときの格好が変だったそうですよ。床から半身を出して、両手を伸ばして助けを求めるように見えたとか。体だけでなく、ヨロイも床にそって、切り口が平らになって、まるで床に飲みこまれたみたいな姿だったと聞きました」
ワレスは眉をひそめた。
魔物に襲われることは、砦の兵士なら、誰しも覚悟がある。しかし、相手が無生物——それも自分たちを魔物から守ってくれるはずの城塞が襲ってくるのではないかと思えば、心のよりどころなど何もなくなる。
「床に……か。それは、ちょっとイヤな死にかただな」
「でしょう?」
「しかし、本丸でのことだ。正規兵か魔術師がなんとかするさ」
「そうですね」
笑いあって、ワレスはその話を忘れた。
昔、女をくどくのに使っていた詩集を、声に出して読み始める。
この事件が、どれほど深く自分たちにかかわってくるのか、まだ、ワレスは知らなかった。
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