人間は社会的動物である ――アリストテレス (4)


 破綻へのカウントダウンはいつから始まっていたのだろう。

 確かなのは、彼らはいずれ覚める甘い夢の中にいたということ。そして、二人とも、それが夢だと薄々気がついていながら、見ないふりをしていたこと。

 藤里はよく泣く子だった。嬉しさ、悲しさ、怒り、悔しさ――あらゆる感情が昂った時、その発露として涙を流した。コンペの選考に落ちた時も、大学の級友にチクリと嫌味を言われた時も、母親とちょっとした――本当に些細な――言い合いをした時も、彼女は見せつけるように嘆き、泣いていた。慰めるのはいつも立川の役目だった。可哀想に。お前はこんなに頑張ってるのにね。

 藤里は優しかったけれど、甘やかされることにはとことん無自覚だった。そういう意味でも二人はよく似ていた。二人の閉じた関係に、それが度を過ぎたものであることを指摘してくれる人間は、誰一人としていなかった。

 とはいえ、母親から苦言が呈されることはたびたびあったらしい。傍から見れば、立川は年下の女子学生に寄生するヒモ男に違いなかった。家事くらいはやるが、働く気もなく、かといって何かに向かって必死に努力するわけでもない。中身のない毎日をだらしなく消費するだけ。そんなろくでもない男とは別れた方がいいと言われるのは想像に難くなく、また弁解の余地もなかった。

 母親に釘を刺されるたびに、藤里は自分の恋人がいかに自分によい影響を与えているかを訴えた。あの人のおかげで音楽にも精が出ている、結果も少しずつ出始めている。曲に深みが出たねと言われた。足を引っ張るどころか、あの人は私の夢を応援してくれる。私もあの人も愛し合っている。それの何がいけないの?

 それでも渋い顔をされると、彼女は「お母さんがわかってくれない」とさめざめ泣いた。愛するふたりを前に現れた障壁は、悲劇に酔うにはあまりにも十分な舞台装置だった。ますます世界は閉じていく。

 ふたりの干渉が自他境界を越え始めるのも、時間の問題だった。


 立川が音楽への未練を抱えていることなど、藤里はとうに気がついていた。彼が見ないふりをしているそれに正面から向き合わせることが、きっと彼のためになるのだと、藤里は信じていた。だって陽くん、言ってたじゃない。命を賭けれるものがない人生は死んでるのと同じだって。そんなことを思いながら、ただやり過ごす人生が楽しいわけない。変わるのは今からだって遅くないよ。そうでしょう?

 彼女のそんな親切心が、立川には鬱陶しくてたまらなかった。けれど、泣きそうな目でこちらを仰ぎ見られると、頼られると、つい甘やかしたくなる。

 そうして悲劇は起こった。

 立川の助けを得ながら実力をつけていった藤里は、もともとの才能と素養ともあり、ついにメジャーデビューへと手をかけた。ただしそれには条件があった。アルバムを作るために、新しい曲が十数曲必要だった。

 藤里はさりとて筆が早いほうではない。その上その頃の彼女はスランプだった。大きな転機を前にプレッシャーを感じていた。歌手になるよりも歌手でい続けるほうがずっと難しい。彼女が向かおうとするのはそういう世界だ。初手で躓くことは死を意味する。だからこそ、彼女は恐怖と不安でいっぱいで、そうなるともう作曲どころではなかった。

 可哀想な藤里。せっかくここまで来たのに。彼女を不憫に思った立川は、「俺も手伝うよ」と申し出た。せっかく夢が叶いそうなのに、こんなところで諦めるのは勿体ない。彼女の夢が自分の夢にもなりつつあったからこそ出た台詞だった。

 藤里は嬉しかった、らしい。だって立川がやっと音楽に向き合ってくれるのだ。

「ありがとう」少し躊躇うようではあったが、縋るように抱きついてきた。

 そうして、半分以上の楽曲を立川が作った。自分の色を出さず、あくまで“トーリ・ナカエの曲“を。音監の規定する枠からはみ出ない言葉選びさえ気をつけていれば、彼女の曲を知り尽くしていた立川には造作もないことだった。久しぶりの作業だったのに、呆気ないほど簡単に、昔の感覚が戻ってきた。演劇時代に得たものも多い。アウトプットをしないことで、自分が思っていた以上に鬱屈を感じていたことを知る。それが晴れていくのは気分が良かった。バンド時代の作曲では使うこともなかった様々な電子音を、工夫を凝らして曲に取り入れるのも、なかなか楽しい。

 ふたりの作った曲の個人差は、藤里自身の幅の広さとして肯定的に解釈された。軌道に乗り始めてからは早かった。もともとインターネットで獲得していたファン層もあり、ネット初のポップミュージシャン・トーリは、あちこちから引っ張りだこになった。音楽番組やらライブやらの間に、とても一人では捌ききれない量の仕事が来た。断ることのできない藤里は、そのたびにおろおろと助けを求めた。

 立川自身も、最初は嬉しくないわけではなかった。どんな形であれ、自分の作ったものが世間に認められることも、藤里に頼られることも心地よかった。去勢された健全な世界で、藤里の作った世界観を模倣しながら、毒気も激しさもない曲を量産する。そこには強い刺激もない代わりに、自分を害するものも何もない。「トーリ、デビューしてから曲調変わったよね」と囁かれる声もあったが、デビュー後のミュージシャンとは得てしてそういうものだ、という域を出なかった。

 自分が作り出した曲であっても、賛辞を浴び、名声を得るのは藤里一人だ。それでもいいんだ、だって彼女の幸せが俺の幸せなんだからと、立川は献身に身を窶した。自己暗示をかけながら、彼は画面に向かって曲を打ち込み続けた。藤里への愛情は、そのままゆっくりと、自身の首を締める真綿に変わった。

 学業では佳境を迎えつつある藤里は、その隙間で仕事をしているからか、常に何かに追い立てられていて、余裕がなかった。代わりに音楽監理局とメールのやりとりをするのも、次第に立川の役目になった。事務的に打ち返されるメッセージ。「訂正してください」という文句には神経を逆なでされたが、淡々とやり過ごしていた。担当者の名前を見るまでは。

 ――音楽監理局総務部新規楽曲申請受付 日野響哉

 強い電流に身体を貫かれたようになって、立川は身震いした。

 人違いだよな? まさか。だって彼は教師を目指していた――少なくとも高校卒業前には、保険だけどと言いながら話していた――はずで、それがなんで音楽監理局なんかに勤めるわけ?

 嘘だと思いたかった。藤里に「問い合わせてほしいことがある」と言い、スピーカーホンにしてもらって、電話をかけた。受話器から聞こえてきた声は、いささか機械じみた単調なもので、だけど少しも変わらない日野の声だった。

 何やってんだよヒノちゃん。一緒にバンド組んだとき、あんなに楽しそうだったのに。そう思ってから、自分が人のことを言える立場ではないと気づく。

 立川は、夢という言葉の見せる甘い幻から引き戻された。

 急に我に返ったような感覚だった。

 こんなことは終わりにしなければならない。今の状況が互いにとって良くないことくらい、薄々わかっていたことだ。自分がしていることは、雛に狩りを教えない親鳥と同じだ。このままでは藤里は本来持った力を発揮できないばかりか、どこかで破滅する。しかもそれは、自分ばかりでなく、歌手・トーリが再起不能なまでに批判の渦中に置かれることを意味する。弱いあの子が、それに耐えきれるわけがない。

 藤里は立川に、音楽にまた向き合ってほしいと言っていた。自分だって、音楽に対して未練たらたらなのは承知していた。だけど俺たちは甘やかし合うのが心地よくて、その快楽に溺れて、互いにどうしようもなく依存して、その結果がこれだ。

 ――俺が本当にやりたかったのは、誰かのふりをして、自分のものじゃない曲を機械のように作ることだったか?

 こんなのはただの猿真似だ。自分の言葉ですらない言葉を紡いで、挙句歌うのは他人で。

 俺はこんなことのために生きてきたのか?

 一度自覚すると、彼はさらに泥沼に引きずり込まれた。苦しい。息ができない。それでも曲を作り続けた。気づいてしまったことが残酷だった。俺はこんなにも、自分で自分の歌を歌いたい。誰にも認められなくてもいい。名声なんてなくてもいい。観客なんかいなくても、それだけで満足だったあの頃みたいに、言葉の制約も気にすることなく、自由に、歌いたい。

 身を焦がすほどの激しい欲望を前に、自分で自分を騙し通すことは、もうできなかった。


 もう終わりにしよう、と言うと、予想通り、藤里は泣いて取りすがった。「どうしてそんなこと言うの?」「お願い、わたしには陽介が必要なの」笑えるくらい想像通りの言葉。「何か気に障ったんなら謝るから」「どんなことでもするから」と、彼女は必死にこちらを引き留めようとする。

「だってゴーストライターだよこれ」

 立川の声に、藤里はびくりと身をすくませる。

「詐欺と一緒だよ。ずっと騙してるんだよ、色んな人をさ。ずっとこのままでいられると思ってる? いずれバレるんだよ、こんなこと」

 もちろん加担していたのは自分だ。自分で口にしながら、罪悪感に呑まれそうになる。

「陽介が手伝ってくれるって言ったんじゃない……!」

 案の定指摘された。胸が痛かった。「だったら全部俺のせいにしてもいいよ」と言ったのは、だから、贖罪のつもりだった。

「とにかくこういうことはもう終わりにしたい」

 家からも出て行くつもりだというと、藤里は「どうして」とさらに血相を変えた。

「どうやって生きてくつもりなの? わたしがいなくて行く当てあるの? 生活できるの?」

 そうやって必死に縛ろうとするのは、彼女の悪い癖だった。それでなおさら相手の心を離れさせるのも、彼女は気づかない。

「ねえお願い、一緒にいようよ。曲を作らなくても、それはできるでしょう?」

「無理だよ。俺たちはずっと引きずるし、一緒にいたら絶対に、お互いを甘やかす。また同じことをする。一度一線を越えたら、もう、無理だ」

「どうしてそんなこと言うの? わたしのこと嫌いになった? 他に好きな人ができたの? だったらそれでもいいから――」

「違うよ。だから余計ダメなんだって。なんでわからないかな」

 苛立たしげな立川。八つ当たりだということはわかっていた。何に対する怒りなのかも明瞭だった。この事態を引き起こした責任の一端は、間違いなく自分にあるのだから。

 藤里は小さくしゃくりあげながら、潤んだ目でこちらをじっと見ていた。縋るように。「わたしを見捨てるの?」と顔に書いてある。ぎゅうっと胸が絞られる。

「――自分の歌を歌わなきゃいけないんだよ、俺たちは」

 苦しかった。全身が引き裂かれるようだ。

「わたしの曲を作るのが嫌になったから? 自分の歌を歌いたくなったから? だからわたしが邪魔になっちゃったんだよね? ねえ」

「……ごめん」

 その言葉が答えだった。

「……ひどいよ。謝らないでよ」

 謝るくらいならそばにいてほしいのに。

 行かないで。

 腰にしがみついてくる藤里。行かないで、いやだ、一緒にいたいよ、嗚咽の中で何度も駄々をこねる。熱い涙が立川の服を濡らす。立川は彼女の頭をそっと撫でた。いつかのまどろみの中のように。

「トーリなら、大丈夫だよ。俺がいなくても、お前は一人でも立てる」

 だって彼女には才能がある。自分が肩を差し出したから背負われていただけで、他人に寄りかかった方が楽だったからそうしていただけで、本当は自分の足で立って歩けるのだ、この子は。

「どうして優しくするの……?」

「好きだから」

「今まで一言も、そんなこと、言ってくれなかったのに。ひどいよ」

 そう。俺はひどいヤツなんだよ。これまでもそうだったし、たぶんこれからも。だから俺なんかさっさと嫌いになって、ちゃんと働いてる、同じ言葉の通じるまっとうなヤツを好きになればいい。その方がずっと幸せだ。彼女にとってはそうだ。きっと。

 ひどい男でいられるうちに、自分の決意が変わらないうちに、立川は藤里の家を出た。荷物はデイパックとギターケースだけで、長年の習慣がさせるものなのか、ちっとも増えていなかった。無理に引き留めることこそしなかったけれど、藤里はずっと泣いていた。後ろ髪を引かれながら、冷徹さを演じながら、ドアを閉めた。

 頑丈なマンションを出て、全ての感情を足にぶつけるように、しばらく黙々と歩いていた。後ろを振り返ることはできなかった。かといって前を向くこともできなくて、ずっと足元だけ見ていた。

 おかげで何人かにぶつかった。「なんだよ、邪魔なモン背負いやがって」ギターケースを忌々しげにねめつけ、誰かが吐き捨てた。

 慣れきっていたはずの孤独は、怒りや悲しみとくっつくと、どうしてこうも厄介なのだろう。

 雑踏の中に紛れた。不意に思い出したのは、枕辺で聞いたあたたかくて優しい声だった。陽くんはいい子だよ。

 どこがだよ、バカ。

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