人間は社会的動物である ――アリストテレス (5)

 彼はたったひとりで駅前の往来に立った。手には、整備をしたギターがひとつ。

 最初のコードを鳴らす瞬間は、張りつめたような緊張を感じていた。しかしすぐに、そんな緊張など杞憂そのものだったと知る。

 彼は歌った。自分の歌を、自分の言葉で、自分の声で。それは解放的であると同時に、とてつもなく孤独だった。誰かに響いてくれるはずだと思った。けれど足を止めてくれる人すらいない。どんどん目の前で人は通り過ぎていく。まるで自分など存在しないかのように、世界は滞りなく巡り続ける。

 期待に満ちていたはずの毎日は、まったく手ごたえを得られずに過ぎていく。

 残暑。照り返す熱線の中。蝉の声の方が、まだ人々の耳を捉えていた。

 彼は幽霊だった。完全な透明人間ですらない。奇異なものでも見るように気にするか、迷惑そうに一瞥する以外は、ほどんど誰も彼のことを目に留めない。

 知覚されないのは存在しないのと同じだと知った。歌い続けないと立川は世界のどこにも存在しなかった。

 人間は生まれて死ぬまで結局ひとりだ。誰かと助け合うことはあっても、自分の足で立って歩かなきゃいけない。そうじゃなきゃ意味がない。俺はひとりでも歩いて行ける。寄せ集まらなきゃ何もできないような人間とは違う。

 そんな言葉で合理化を繰り返した。存在を無視し続けられ、喉が嗄れ、精神も身体もどんどん摩耗していく。弦の形に赤く、あるいは青くなった指に、何度も豆ができては潰れた。ピックはいつの間にかどこかに行っていた。爪が削れて皮膚が擦れる。

 身体がボロボロになっていくほど、彼は躍起になって歌った。

 もとより金はなかった。時折投げ銭はあったが、飯代になればマシな方だった。ホテルに泊まることすらできず、カラオケやネットカフェで仮眠をとった。財布が空になれば機材を売った。パソコンや携帯を含めて手持ちのあらゆる機材を売っても、二束三文にしかならなかった。

 狩岡に土下座をして生活費を借りたこともある。「虫が良すぎると思わないのか」とさすがに溜息が聞こえた。頭を上げることができないまま、「思うよ」と口の中で噛みしめた。「だけどもうこうするか死ぬかしかないんだ」

 そうして借りた生活費も呆気なく底を尽きた。そのうちどこかに泊まることもできなくなった。涼しい季節になっていたのだけが救いだった。ギターケースを抱えたまま軒下で野良猫のように眠った。

 ある日は「おい、邪魔だよ」と店主と思しき男から足蹴にされ、またある日は悪戯好きの子どもから空き缶を投げられた。

「ニイちゃん、誰の許可を得てそこで寝てんだよ」と悪ガキに絡まれた時も、最初は無視していた。凡庸な二人組のチンピラだった。「イカれた歌ばかり歌ってんだってな」「二度と歌えなくしてやろうか」ギターに手を触れられそうになり、立川はゆらりと立ち上った。幽鬼のような目をしていた。

 殺されることも、法を犯すことも、毛頭怖くはなかった。歌を奪われることに比べれば命など惜しくはなかった。失うもののない無謀さは、時として無慈悲な暴力に変わる。

 手が風を切る。鈍い音。伏した顔に踵を落とした。地面と勢いよく接吻した顔から、ころりと前歯が欠け落ちる。短い悲鳴。片割れが、腰を抜かしたまま後ずさる。

「選ばせてやるよ。お揃いで総入れ歯になるか、金を置いてくか」

 そうして巻き上げた金で、立川は久方ぶりに風呂に入った。

 数日後、体育座りをして寝入っていたら、チンピラの群れにずらりと取り囲まれた。「この間はよくもやってくれたな」と言うからにはお礼参りだったのだろう。前回の数倍の人数がいたのは、その程度のことを学習する知能はあったということで、つまり立川はなかなかの危機に瀕していた。

 集団を前にすれば彼の無謀さなどひとたまりもなかった。暴力が雨のように降った。「ちょっと君たち、何してるんだ」という制止があったのは幸運だった。「なんだオッサン」と粋がっていたチンピラたちは、「警察を呼ぶぞ」と凄まれると公然とリンチを続けるわけにもいかなかったらしく、すごすごと退散していった。

 幸運だ。彼は神とやらに珍しく感謝の念を覚えた。しかしすぐに撤回した。自分を助けた男が「痛かっただろう、立てるかい、少し休んだ方がいい」と手をとったとき、男の目に、舌なめずりをするようなものを確かに感じた。少し裏通りに入ればそこがホテル街だという事実が、脳裏によぎる。

 見え透いた下心。どこに行っても結局、俺はこの手の視線に晒されるしかないのか。立川は心中でせせら笑った。もはや嘆くことすらしなかった。代わりに「幾ら出せる?」とだけ聞いた。

 自分がこんな風に卑しい人間を引き寄せるのは、きっと、自分自身がこの世の誰よりも卑しいからなのだろう。そう思った。


 いつしか残暑も姿を消し、朝晩の冷え込みは日に日に増していった。野宿は快適さから遠ざかっていくばかり。時折は稼いでいたものの、最低限の身なりを整えるのが精いっぱいだった。このまま粘り続けて凍死するか、目の前の現実に絶望して死ぬか。立川にはその二つしか残されていなかった。

 音楽は彼の心臓そのものだった。歩みを止めることは、今度こそ本物の死を意味していた。ぼろぼろのギターを売ったところで、あの世への渡り賃になるかも怪しいところだ。

 どれだけ必死に歌っても、届かない。やりきれなかった。不毛だった。苦しくないわけがなかった。惨めで、孤独で、どんどんみすぼらしく薄汚くなっていくばかりで、痛みを分かち合える人間さえどこにもいない。もう何日、誰とも会話をしていないだろう。俺は何のためにこんなことをしているんだっけ。自問しては、それを掻き消すように歌った。

 歌うことの喜びとはとうに無縁になっていた。彼を突き動かすのは惰性と執心以外のなんでもなかった。それより他に彼は何一つ持っていなかった。自分には才能がなかったのだと、正面から諦められるほどの強さすら。

 次第に風が冷たく乾いてくる。指先がささくれて剥けて血が滲む。随分前から関節も喉も痛みが消えない。

 ――明日にはこんなことやめにしよう。こんなのはもう今日限りだ。

 目が覚める度にそう思うのに、次の日にはやはり希望を夢見てしまう。一時だけ、ほんの一時だけ報われるような瞬間も確かにあって、その微かな光が彼の心を縛っていた。

 ごくまれに、何百人に一人くらいは、彼のことを振り返ったり、足を止めてくれる人がいた。「お兄ちゃん、がんばってね」と、小さな手で五百円玉を入れてくれる子どもがいた。冷え込みの強い夜、自販機の温かいお茶をくれた老夫婦がいた。おしゃべりなおばさんが飴をくれた。隣で詩を売っていた男が、「いい歌だな」と小さくひとりごちた。

 始めた頃よりも本当にわずかに、だけど確かに、足を止めてくれる人は増えていた。

 そうこうしているうちに、自分の存在は多少話題になっていたらしい。久しぶりに会話の相手が現われた。警察だった。

「君、何してるの?」「監理局の許可は?」

 一瞬の隙をついて彼は逃げた。そしてまた、別の場所で一からやり直し。

「うるせえんだよ」昼間から酔っぱらってるジジイから唾を吐かれる。

「何あの人」「なんかヤバそう」と遠巻きに囁かれる。

「誰も聞いちゃいないのによくやるよな」学生たちの無邪気な笑い。

「あんな風にならないように、ちゃんと勉強しなきゃダメよ」子どもに言い聞かせる母親の声。

 それでも、反応があるだけまだ耐えられる。そのうち彼らも、景色としてしか自分を見なくなる。ああ、またやってるよ、という、道端のビニール袋でも見るような、つゆほどの感傷もない眼差し。

 街灯の電子看板で、ポスターで、トーリの姿を見たことも数度ではない。そのたびに苦々しい後悔と嫉妬に苛まれた。あそこを出なければ、こんなひもじい思いも情けない思いもしなくてよかったんじゃないか。いっそ彼女の家に戻ってしまおうかと何度も思ったけれど、戻ったところで邪魔になるだけだとわかりきっていた。捨てた女に縋るなんてみっともない真似もしたくなかった。

 夜風に手がかじかむ。諦めたら楽になるぞと、もう一人の自分が誘惑する。どうしてつらいとわかっていながら続ける? どうして報われないとわかっていながら歌う? こんな独り相撲なんか、誰も見ちゃいない。さっさと終わりにしちまえよ。そうしたら少しは楽になれるはずだろ?

 寒さはそのまま痛みに変わる。ろくに防寒具なんか持っていない。薄着で歌い続ける彼を見て、ぎょっとした顔を浮かべながら、遠ざかっていく人がいる。手先の感覚はいつからなくなったっけ。足元のお菓子の缶に数百円。よかった、今日は飯が食える。そんな日々。

 ぴんと張りつめた糸は、切れればもうそこで終わりだった。

 錆び放題のまま使っていたら、ついに一弦が切れた。弦を買う余裕どころか、買いに行くための交通費すらなかった。弦が切れたまま歌って、音の厚みが弦一本分少なくなると、ますます見向きもされなくなった。そのうちもう一本弦が切れた。

 今日はもうこのくらいにしよう。真夜中、そう思ってギターを肩から降ろすときが、一日の中で最も敗北感に満ちていた。それでも星を見ながら眠る夜は悪くなかった。そう思うことすら、単なる負け惜しみのように思えた。 

 息が白い。

 タイムリミットは近かった。

 身体か心か。どちらが壊れるのが先かの、我慢比べ。


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