人間は社会的動物である ――アリストテレス (3)

 かたや音楽監理局長の娘。かたや反監理派筆頭の息子。まるでモンタギュー家とキャピュレット家のふたりは、お互いの弱い部分がかちりとはまり合った。藤里は頼る人を求めて、立川をずるずると家に住まわせた。立川は衣食住と自分の存在意義欲しさに、藤里の好意に寄りかかった。

 立川は自分の人生に見ないふりをして、藤里によく世話を焼いた。髪を梳いてやるのが好きだった。暇を持て余して料理に凝り始めたのもこの頃だった。喜んでもらえることが、素直に嬉しかった。

 自分と付き合いだしてから、身びいきを差し引いても、藤里はかなりきれいになった。どんどん自信をつけていく彼女の成長が眩しかった。

 一方で、彼女は何に関してもアドバイスを求めた。今日着て行く服は何がいいだろうとか、ここのコードはCとC7どちらがいいかとか、要件は色々だった。「わたしより陽くんのほうがずっと頭がいいし、色々知ってるから」という言い訳。自分以外の誰かの意見を聞かないと、不安でたまらない、という風に見えた。

 誰かの顔色を伺うことで心安くなるのは、自分の行動に責任を持ちたくないからだ。藤里はずっとそうして生きてきた。それまでは意見を仰ぐ対象が母親だったのが、立川へと移った。それだけのことだった。

 良くないとわかってはいたが、立川は藤里を甘やかした。頼られることは、自分の存在が正当化されるようで、知らず知らずのうちに彼も安心していた。立川の藤里に対する態度は、自分の夢を子に仮託する親によく似ていた。敵わなかった自分の願望を、他人の人生の中に見る。

 間接的な支配と被支配。相手には自分がいなきゃダメなのだと、お互いに信じ合っていた。お手本のような共依存だった。


 価値観のすれ違いはたびたび起こった。

 小学校から私立に通い、両親の興行に連れ立って音楽留学をしながら、中高一貫の女子校を出、そのまま難なく音大に進んだ藤里。育ちがよくて、下層の世界を知らない彼女は、温室で守られて育った人特有の、ある種の世界の狭さがあった。

 両親が揃っている前提で家族の話題を振ってきた朋輩を思い出させた。本人に悪意はないし、落ち度もない。強いて言えば、少しばかり、想像力が足りないというだけ。

 何かの折、「実家に帰らなくてもいいの?」と訊かれた時、祖母と折り合いがよくなかったことを話すと、「せっかく面倒見てくれたんだから、ちゃんと仲良くしなきゃだめだよ」と、諭された。

「帰ったらきっと喜んでくれるよ。おばあちゃんだって、陽くんのことちゃんと愛してたから、口うるさくいろいろ言ったんだよ。ちゃんとした大人になってほしいって」

「ちゃんとした大人、ねえ」

 それがこのザマなのだから笑える話だ。藤里の体現してきた善を、踏みつけ、コケにしながら生きてきた立川は、まるで彼女の思想とは対極だった。

「本当は陽くんも、音楽をやりたいんじゃないの?」

 無意識に鼻歌を歌っていたら、そう言われたこともあった。立川はその言葉に寒気がするほどの苛立ちを覚えた。自分がどうして音楽を辞めたのか、詳細こそ伏せていたものの、ある程度は話をしていた。背中の火傷の痕も知っているはずだった。それなのにどうして、そんなことが軽々しく言えるのか。彼女の指摘が的外れではなかったことも、また彼を憤らせた。

「お前さあ、そんな風に無神経だからいじめられたんだよ」「いい子ちゃんでウザいって言われたことない?」「本当空気読めないよな」藤里が傷つくことなどわかりきっていて、わざとそんな言葉をぶつけた。

 どれだけ割り切ろうとしても、言葉の通じなさがもどかしかった。それは藤里も同じなようで、言葉を尽くして説かれる善は、あまりにも美しく、だからこそ残酷だった。

 藤里はまっとうだった。教科書通りの道徳や常識を――立川がかつてキレイゴトと呼んだようなものを――まっすぐに受け入れ、それを他者にも疑いなく当てはめられるほどに。その淀みのない善が、諸刃の剣だということも知らないほどに。


「陽介のことをわかりたい」という藤里と、安易に自分の核に触れられたくない立川とは、真剣に向き合おうとすればするほど、互いを摩耗させた。近づきすぎては離れ、その不足を満たすためにまた近づこうとする。つい言わずにはいられなかった余計な一言が、見えない傷となっていくつも心を蝕んだ。

 それでも穏やかな時間は確かにあった。お互いにいたわり合い、羽を繕い合うような優しい時間だった。だから少しは幸せだったのか、それでかえって苦しかったのかはわからない。

 藤里には、狙ったようないやらしさはないのに、すんなりと心の深いところに潜り込んでくるような、不思議なところがあった。

 いつかの枕辺。両親との死別を、なるべくさりげなく告白した時。「陽くんはお父さんもお母さんも大好きだったんだね」と、慈しむように言われた。

 そんなことを言葉にされたのは初めてのことで、立川はどうしていいかわからなかった。認めたら、自分がひどく弱く、幼く、情けない生き物に成り下がってしまうように思えた。

「大好きな人を亡くして、辛くないわけないよ」

「別にそんなんじゃないよ、俺は」

 いつも以上におどけて、笑って誤魔化そうとした。「そんなタマに見える?」

「……辛いことは、ちゃんと辛かったって認めてもいいんだよ。じゃないと、心のなかの子どもが、ちゃんと大人になれないの」

 心のなかの子ども。彼の心の中の時計はいつの間にか止まっていた。それがいつだったのかと訊かれたら、決定的な瞬間は、たぶん父親が死んだ時だ。あそこから少しずつ、歯車が狂い始めた。

 悲しみを認めることは罪悪だと思っていた。自分が悲しかったと認めたら、「なんて親だ」「親失格だ」「子どもに苦労させて、可哀想に」という非難の正当性も認めることになる気がしていた。

 だから立川は、悲しみを深いところに押し込めて、南京錠をかけて封じた。代わりに彼が抱えてきたのは、痛みであり、怒りだった。それだけが前に進む力だった。

 悔しくて涙をのんだことがあっても、悲しみのあまり泣くようなことを、彼は自分に許さなかった。それまでずっと――そして結局、それからも――彼はそうだった。

「ずっと、寂しかったんだよね。色んな人と繋がろうとしたのも、だからなんでしょう?」

 かちり。思いもしなかったタイミングで、錠は容易く外される。藤里の声は、誰も手の届かなかった心の隙間に、するりと滑り込んでしまう。

「人間は社会的動物なんだよ。誰かと繋がらないと不安なのは、当たり前だよ。だってお父さんもお母さんもいないんだもの」

「違うよ。俺はただ根っからどうしようもないクズなだけだ」

 持て余した肉欲のために誰かを利用した。それだけ。人を人とも思わない最低の人間だとは、何度罵られたか。その通りだと思っていたから、特に反論もしなかった。

 事実を見れば誰でもそう思うだろう。クズにクズの上塗りをしながら生きてきたのだ、俺は。

 言葉の刃を自分に向ける自傷行為は、いつの間にか癖になっていた。

「大丈夫だよ」と言って、藤里が胸元に頭をつけてくる。

「本当の陽くんは、優しくて、まっすぐで、とってもいい子なの、わたし、知ってるよ」

 こいつの言葉はいちいち調子を狂わせる。

 俺が一体――お前を含めて――どれだけの人間を傷つけてきたと思ってる? 裏切ってきたと思ってる?

 喧嘩になれば罵詈雑言を浴びせるのはいつだって口達者な自分の方で、人を傷つける語彙なんかほとんど知らない藤里は、いつも口をつぐんで泣いていた。「なんでそんなひどいこと言うの」という台詞を何度言った? 何度俺に泣かされた? それでますます苛立った俺に八つ当たりされることだってあっただろ? なのにどうしてそんなことが言える?

「なにそれ」

「本当だよ。誰だって本当はとってもいい子なの。陽くんだってそうなの」

 普段は子どもみたいに不安がっているくせに、きっぱりとした口調だった。藤里は子どもを労わる母親みたいに、立川の髪を撫でた。

 これ以上優しくされたら気がおかしくなりそうだった。だって俺は、そんな価値のある人間なんかじゃないのに。深い海に溺れていきそうで、彼は咄嗟に心を閉じた。どれだけ奥に閉じこもろうとしても、藤里はすんなりと手を伸ばす。

「大好きだよ、陽くん」

 砂糖水みたいな声。愛を囁かれることに今更感慨なんてないはずだった。気づくと重たい粒が目から零れていた。なんで自分が泣いているのかすらわからなかった。

 嗚咽に震える肩に、体温が触れた。

「世界でいちばん、愛してる」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る