上善は水のごとし ――老子 (10)
女の敵日本代表だの歩くモラルハザードだの変なあだ名を山ほどつけられて、仲間内でやいのやいのとやっているうちに、あっという間に高校生活が終わった。中学の三年間は死ぬほど長く感じたのに、高校での三年間はやたらと短く感じた。
大学は、周りが受験していたから、一応した。将来のことは何も考えていなかった。音楽ができればそれでいいし、できなくなったら潔く死んでもいいと思っていた。音楽のためならいくらだって命を賭けられる。それができなくなるのは、生きる意味を無くすこととほぼ同義だ。そう思っていた。
都内じゃまあまあの私大の文学部に進学して、退屈と停滞はいくらもせずに戻ってきた。高校に比べて自由度は格段に上がった。何せ授業に出なくても誰にも何も言われない。面倒なことをサボるいつもの悪癖で、ダメな大学生の典型に成り下がるには、そう時間はかからなかった。
知り合いの家を泊まり歩いて、家にはますます帰らなくなった。「せっかく高い学費払ったんだからちゃんと卒業しなさいよ」と釘を刺されると余計に、ますます真面目にやる気が失せて、大学は結局一年でやめた。ついに彼は何の肩書も持たないただの人間になった。
曲は作り続けていた。インディーズに馬の合う仲間も何人かできた。そのうちの一人の女とは、悪友じみた冗談も言い合えるほど打ち解けた。世話焼きで、オカン、とあだ名のつけられているような女だった。あたし、あんたのファンなんだよね。人生余裕そうなのに、あんたの作る曲って、なんでいつもあんな暗いの? ズバズバとした媚びない口調が好ましかった。付き合ってはいなかったけれど、女の家でふたりで飲んでいた折、それっぽい空気に誘導したら、彼女は簡単に身体を許した。それからなんとなく、その女の家に住み始めた。
歳のせいなのか、諦めなのか、祖母は以前ほどうるさく言わなくなっていた。作曲用の機材とギターと少しの着替えを持って家を出る時も、横目でちらりとこちらを見ただけだった。もう二度と戻ってこないつもりなのは、向こうもわかっていそうなものだったけれど。
父親が遺していた自分あての通帳は、もうどこにあるかもわからなかった。子どもに大金を持たせるもんじゃないから、と祖母が管理していたはずだが、つつましやかな年金生活だ。どうせ生活費に使われたのが関の山だろう。今さら聞いてもどうせ諍いの種になるだけだと思うと、それすら面倒だった。
収入も貯蓄もほとんどない。例のボロいバイトはとっくに辞めていたし、働く気もあまりなかった。女に寄生しながら息を繋ぐ、長いヒモ暮らしは、こうして始まった。
最初はうまくいっていた。自分で舵をとれるバンドも増えて、気づくとインディーズではなかなかの古株だった。
宿主がいても、寄ってくる女の子は片っ端から食い荒らしていた。最初のうちは何も言われなかった。曖昧に謝ったらなんとなく許されていた。それが積み重なってきて、ある日、限界にきた彼女に、ただならぬ剣幕で怒鳴られたのが、終わりの始まりだった。
なんでそんなに怒るのか理解できなかった。「だって俺たち、付き合ってなくない?」と言ったら、信じられないという顔をされ、ばしんと頬を張られた。女の力だろうが痛いものは痛い。女の子を殴るような男になっちゃったらどうするんだよという親父の言葉を思い出した。たぶん俺があいつを叩いたら大問題になるのに、世間というのはどうして女からの暴力に甘いんだろうな、と他人事のように思った。
家は叩き出された。次の日にライブがあったから、とりあえず一晩寝る場所がほしかった。立川はほとんど無一文だったが、そういう時は賭けに出た。適当な酒場にでも行って、一人で憂いげに座っておく。女から声をかけられれば、こちらの勝ち。件の女とつまらない喧嘩をしたときなどは、いつもそうしていた。ちなみにこの賭けにおいて彼は敗北を知らない。
「お兄さん、一人?」
幸運の女神は今回も彼に向かって微笑んだ。
落ち着いた風貌、やや年増だが、目元の優しげな美人。胸元は控えめ。
及第点かな、と思いながら口にする。「そ、カノジョにふられちゃってさ」
「俺たち、付き合ってなくない?」と言ったその口で、立川は飄々と言葉を紡ぐ。
「えー、勿体ないね、カノジョ。こんないい男なのに」
「そんなこと言ってくれるの、オネーサンだけだよ」
ご傷心、といった様子で目を伏せると、女は憐憫と慈悲の入り混じった表情でこちらを見てくる。
「おかげで行く当てがないんだ」
「あら。一杯奢ろうか」
「本当? 優しいな」
けど俺飲めないんだよね、下戸でさ。脆弱な微笑。少し弱さを見せるだけで、相手は簡単に揺らぐ。人は弱い生き物だと言うのは本当らしい。これは共鳴なのだろう。誰もが優しさに飢えている。傷ついている。だから傷を舐め合いたくて仕方ない。
慰め合うために、人は人を求める。
なんて簡単な論理。
女は一晩だけといって、立川を家に泊めた。「俺、誰かにこんなに優しくされたの、初めてだ」心にもないことを言うのにも、いつから抵抗がなくなっただろう。弱さを演じるのは強さを演じるより楽だった。雨に打たれた捨て猫のような、惨めで哀れで弱い彼を、人の好い女たちは放っておけない。
心以外のものを慰めるために、立川はわざと泣きそうな顔で唇を合わせる。
哀れな親父。あらゆる哲学を、善を、正義を言い聞かせて、大事に大事に育てた息子は、女を殴りはしないけど、女を使い捨てるようなクズになり果てた。大学中退、住所不定無職、二十代。ド底辺。所持金二桁。貪り喰うしか能のない社会のゴミだ。ざまあない。
早く大人になりすぎた少年は、うまく大人になり損なったまま腐っていく。
それから数日、女の家とホテルとを渡り歩いた。次の宿主になりそうな女は何日かしたら見つかった。ソープとデリヘルを掛け持ちして働く女の子。三つ年上。専門学校の学費のために働いていたが、結局学校との両立ができず、辞めてしまった可哀想な女。ライブハウスの客だった。
立川が少し優しい言葉をかけるだけで、高圧的にならない、説教をしない、殴らないというだけで、彼女は驚くほど自分に懐いた。
色んな人間を裏切り続けてきた報いは、思ったよりも早く訪れた。
「あまり調子乗んなよ」といういつもの権勢は、自分より古株の人間から、散々聞いていた。それを気に留めなかったのは、彼らよりも自分のほうが、明らかに実力も人望もあったから。所詮は嫉妬だ。立川はもはや馬鹿にするのも隠さなかった。面白く思われないのは当然だった。
それはたぶん、いつ起こってもおかしくはなかった。
あいつ、やっちゃってよ。そう言いだしたのは件の“オカン”だった、らしい。あいつ、プライドだけは高いから。女のこと人間だと思ってないから。同じように、家畜みたいに扱ってやれば。彼女はそう言った、らしい。
つまんない女。どうしてあんなのと一緒にいたんだろ。そう吐き捨てるだけの余裕は、一晩もあればなくなった。
どうして指輪なんかにムキになったのか。何度後悔してもしきれなかった。
暴力と嘲弄。嗚咽。汚辱。身体の内側から裂かれるような痛み。家畜の方がまだ丁重に扱われるというものだ。必死に心を殺しながら、嵐が過ぎ去るのを待つように、ただ耐えていた。よかったな、母親とお揃いの女優だぜ。誰かの笑い声。携帯のカメラの赤いライト。いくつもの目。
立ち上がることができる頃には、乾いた精液のせいで髪がばりばりに固まっていた。衣服を直して、壁伝いに歩いて、それからどうやって帰ったのか覚えていない。帰巣本能というやつなのか、気づくと女の狭いアパートに帰ってきていた。まっさきにユニットバスの便器に吐いた。胃の中身がなくなるほど何度も。痙攣と寒気で意識が遠のきそうになった。
シャワーを浴びると、血と一緒にぬるぬるしたものが流れ落ちていった。鏡に映る傷跡。口の横が切れたのは――ああ、嫌だ、思い出したくもない。
べたついた感覚と生臭さは、何度洗い直しても落ちた気がしなかった。体力は限界だった。髪も乾かさないうちにずどんと眠りに落ちた。繰り返し悪夢を見た。相当うなされていたらしく、女はひどく心配していた。
逃げたら負けだと思った。だから翌日出ることになっていた練習も、バンドメンバーにぎょっとした顔をされながらも、どうにか乗り切った。ライブにも予定通り出た。気圧されたら終わり。俺があの程度で屈すると思ってるの? 虚勢を張りながら舞台に立った。
そしてまた、帰り際に呼び止められた。「懲りねえなあ。そんなに可愛がられたいの?」という、下卑た笑みと一緒に。
ただ彼らの玩具にされているうちは、まだ歯を食いしばって耐えられた。便器を抱えながら吐く毎日。だけど心はギリギリのところで踏ん張っていた。携帯に送られてきた自分の写真を見ても、淡々と消す程度の冷静さは残っていた。
限界は見えていた。逃げるのが賢明だ。これ以上は自分の心が壊れる。わかっていた。
一方で、弄んできた女の数を考えると、このくらいは当然の報いな気もした。自分が清廉潔白な被害者じゃないことは、自分が一番よく知っている。
「意外と根性あるんだな」
何もかもを知り尽くしているのだろう柳沢に、さして興味もなさそうに言われた。「うるせえよ」何かを睨みながら歩いた。そうしないと立っていられなかった。舞台に立つたびに、熱狂に応えるたびに、その裏で痣が増えていく。それでも彼は舞台に立ち続けた。マイクに向かって縋るように歌う日々。
儚くも立ち続けるひと茎の葦。その健気さからか、周りの人々の眼差しは、同情的なものも多かった。圧倒的強者でなくなってもまだ、彼は戦うことを望み、自分に言い訳を許さなかった。自業自得? 因果応報? だから何だ。揶揄する声も全て鼻で笑った。サノバビッチ? 上等だ。ステージの上から中指を立てる。
俺は折れない。折れたくない。この程度のことでくたばってたまるか。音を上げるにはまだ早い。俺にはまだここでやることが山ほどある。
自己暗示をかけ続けていた、その矢先のことだった。
暗闇に浮かぶ真っ赤な点。今でもたまに夢に出る。一本。二本。生意気な口をきくたびに、抵抗するたびに、火傷は増えていく。三本。四本。皮膚の焼かれる感覚。痛い。熱い。嫌だ。言葉にならない呻き声を、無理やり押し殺す。こんな時ですら、喉に負荷をかけまいと、一抹の理性がブレーキをかける。衝動的に泣きわめけたらきっと、ずっと楽なのに。
立川は徐々に疲弊してきていた。根負けしてライブハウスに顔を出さなければ、彼らの留飲も下がるのだろう。そう思って、悔しさを飲みこみながらバックレたら、「どうしてくれんの、立川くん」と電話があった。「あんたのせいで、タイテに穴、空いちゃったんスけど」「責任とってくれるよな?」「もしかしてビビっちゃった?」早く来いよ、という言葉を最後に、電話が切れた。
もうたくさんだ。俺はあとどれだけ耐えればいい? どうしたら許される?
――神様。
「お前には無理だったってことさ」
いつだったか、柳沢が見かねたように言った。何もかもが終わった後。取り残された立川の近くを、偶然通ったようだった。起き上がれなかった。差し出された上着を受け取る気力もなかった。
「お前なら表でもやれる。“健全な社会”で去勢されて生きるのも、悪くはねえだろ。死んだら何もかも終わるんだ。生きるために逃げるのは負けじゃねえさ」
「負けだよ」
ざらつく呼吸と嗚咽の中で必死に絞り出した。床に向かって涙が流れ落ちた。
「俺は音楽のためなら死んだっていいと思ってた」
死んだ方がマシな痛みがあることなど知らなかった。
人生二十二年目。初めて知った敗北の味は、死にたくなるほど苦かった。
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