上善は水のごとし ――老子 (9)

 怒り。反骨精神。父親から教わった哲学。言葉にならないほどの敬愛と信仰と執着。それが、その頃の立川を作っていた全てだった。胸の奥底に燻ぶる寂しさや不安は、無駄なものとして取り去った。前を向いて歩いていくのに、そんな弱さは必要ない。強くあろうとすることでしか、彼は自分に存在意義を見出せなかった。

 お前にはどうせ無理だと言われていた高校に受かったのは、そんな反骨精神の賜物だった。自分を馬鹿にしていた教師を見返せたようで胸がすいた。塾なんて金の無駄、勉強なら一人でもできるでしょうと口酸っぱく言っていた祖母は、「うちの孫は塾にも行かず××高校に受かった」と自慢げに友人に電話していた。おばあちゃんは不器用なだけで自分のことをこんなに誇りに思ってくれているんだ、なんて思うほどおめでたくはなかった。

 受験生のうちは真面目に勉強していた立川だったが、高校に入ってからはすぐに元の放蕩が戻った。入学して一ヶ月も経たない頃、一個上の美人の先輩から声をかけられ、二つ返事で付き合った。可愛くてわがままな女の子だった。頻繁に身体を求めてくるところだけは好きだった。この世の何より自分を優先してほしいと宣う彼女の態度に嫌気がさしていたら、「好きな人ができた」とあっさり別れを告げられた。

 放課後のだらだらしたデートがなくなってしまったら、待ち構えていたのはそれ以上の退屈だった。学校の授業も祖母との生活も何も面白くない。溜まった鬱屈を晴らすために地下にでかけた。ライブ後はカラオケや飲み会に行ったり、気が合った子がいればホテルにしけこんだり。酒を飲んだこともあった。一口飲んだだけでありえないほど気持ち悪くなった。介抱してくれた女が美人だったことを除けば最悪だった。

 クラスの女子たちよりずっと垢抜けた、酸いも甘いも知り尽くしたような娘たちから、「××高生なのにこんなトコ来ちゃうの?」と珍しがられることは嫌いじゃなかった。享楽的で刹那的な関係は毒々しい刺激に満ちていた。たまに勧められるドラッグだけは丁重にお断りしていたが。

 夜遊びの強い刺激に飽きると、今度は同級のウブな女子生徒たちに手を出した。安全で優しくて守られた世界。純潔しか知らない女の子たちとの、好意や関係性そのものに拘泥する恋愛遊び。こちらの一挙一動にいちいち頬を赤らめたり、声を上ずらせたりする女子たちは、自分との関係が世界の全てみたいに必死で、可愛らしかった。回し車の中で走るハムスターのようだ。

 どちらかに飽きればもう一方に。そんな風に昼と夜とを代わる代わる行き来した。

 そんなことを繰り返していた最中。ある時のカラオケを機に出演者に目を留められ、ライブに出ないかと言われた。初舞台は緊張でアガって、喉が締まって散々だったが、評判はなかなか悪くなかったようだ。時たま声をかけられるようになった。金がない高校生にとって、ボーカルは身一つでもできるのが有難かった。出演料はかかったものの、圧倒的に年下だった立川は、バンドメンバーから飯くらいは奢ってもらえた。

 この頃、知り合いの仲介で割のいいバイトをすることもあった。指定された場所に行き、雑多な荷物を受け渡すだけ。一見するとお菓子や煙草や入浴剤でしかないが、中身は薬物だ。危険は承知だったが、金が入用だった。曲を作るためのパソコンもソフトも欲しかった。たった一回で、高校生にとっては法外なほどの大金が手に入った。インディーズの腐敗を横目に見ながら、ヤク中たちから渡される裸の一万円札を集めて、必要な機材を揃えた。

 目が肥えてくると、そのうちライブの良し悪しもわかるようになった。ただのお祭り騒ぎに成り下がっているところ、無法者の溜まり場、比較的真剣に音楽をやろうとしているところ。ライブハウスは種々様々だった。裏に繋がっている所も少なくない。ライブハウスはさしずめ、裏と表との境界たる三途の川だった。

 その表と裏とをうまく仲介している、地下全体の管理者。それが、柳沢という男だった。

 表向きはアングラな楽器屋兼スタジオ貸し、その実インディーズの鼠どもの親玉。楽器や機材を売りさばき、暴力団組織とつながることで、“健全で正しい世界“との対立を煽ろうとする、正真正銘の武器商人。噂はかねがね耳にしていた。例のバイトの元締めだという話もある。

「柳沢さん、コイツっす。例のガキ」

 ある日。スタジオでの練習のあと、バンドメンバーに店主の前に突き出された。

「ヤベえよ、マジで。神童ってやつ?」「こんな顔して声量パないんスよ」

「ちょっとは静かにできないのかお前ら」と、店主は億劫そうにポルノ雑誌から顔を上げる。

 その髭面の長髪には見覚えがあった。父親の葬儀に来ていた男だ。格好があまりに場違いだったし、その上他の弔問客と口論までしていたから、朧気だが記憶に残っていた。

 相手も自分のことは知っていたようだ。

「当り前だろ。そいつ、羽山タカトの秘蔵っ子だぞ」

 不意打ちだった。急に無防備な部分に触れられた衝撃から、立川は固まった。な、と目配せをされ、取り繕う暇もなかった。心臓が早鐘のように鳴っていた。

 そんな立川の様子など気にもかけず、「マジ?」「遺伝子つよ」「チートじゃん」と、バンドメンバーが口々に驚嘆の声をあげた。


 俺ならもっとうまくやる。

 ライブに立つ連中を見ていると、徐々にそんな感情を抱くことが増えた。俺なら単なる派手なお遊びで終わらせない。盛り上がればいいと思って、こんな風に誤魔化したりしない。もっとちゃんと音楽をやる。必死になる。こんな内輪だけの停滞で満足したりしない。

 一度演者の側に立つと、なおさら粗を見つけやすくなった。すごいヤツもやっぱりいたけれど、そうじゃないヤツはその何倍もいる。こいつは肩に力が入りすぎ。声帯が開いてないし、喉だけで歌ってる。腹式呼吸もなってない。俺のほうが上手く歌える。

 誇大された自意識にどんどん蝕まれていく。イライラした。ただの慢心で終わらせたくはなかったから、その分腕を磨くことに躍起になった。独学で知識を貪り、上手くなるためならなんだってやった。運動部に負けないくらい走った。夏場の冷たい飲み物すら我慢した。語彙を増やすために寝ずに本を読んだ。だって、口先だけのヤツが一番ダサいじゃん。

 インディーズには妙な序列意識があった。実力は二の次。権力だけはある小者ほど、その力を振りかざす。立川はその手の人間を最も軽蔑していたが、睨まれたら厄介なのも事実だった。口には出さないようにしていたものの、着実に目をつけられつつあった。

 立川はひるまない。「親の七光りだ」という単なる陰口など言わせておけばいい。吠えれば吠えるほど哀れなのは彼らのほうだ。俺なら地下でこそこそ慣れ合うことに甘んじたりしない。戦うことから逃げて、ただ快楽に耽溺するような真似はしない。

 いつか俺が、インディーズを立て直す。

 ロックをもう脱法音楽なんて呼ばせたりしない。


 彼に目をつけたのは偶然だった。

 雨の日だけ乗る通学バスの中。ぎゅうぎゅうに押し込められながら吊革にぶら下がっていたら、目の前の座席に、クラスでも有数の真面目くんがいた。校則では持ち込み禁止のイヤホンを耳に押し込んでいるのが何とも意外だった。リスニングのCDでも聞いているのか? 好奇心に駆られて、端末の画面を盗み見たら、自分も知っている洋楽の名前があったから、さらに驚いた。ロック黎明期の英国のバンド。なかなかいい趣味してるじゃん、優等生のくせに。

 一回目はそれだけ。目が合うことすらない一方的な邂逅。

 次の雨の日、同じ時間帯のバスに乗ったら、やっぱり彼がいた。あの時と同じ座席。気づくと近くの吊革まで来ていた。女の子におざなりにメールを返しながら、ちらりと画面を盗み見る。羽山、という名前が端に見えて、夜遊びのおかげで眠かった目が一気に冴えた。当の本人は戸惑う立川など目もくれず、音楽に聞き入っている。バスのエンジン音に混じる音漏れには、やっぱり聞き覚えがあった。

 ――オイオイ、マジか、こいつ。

 地元じゃそこそこ、の域を出ない進学校。箱入りお嬢さんたちと戯れる以外は、クソつまらなかった高校生活。初めて、面白そうなものを見つけた。

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