上善は水のごとし ――老子 (11)

 負け犬は尻尾を巻いて逃げた。

 一度距離を置くと、驚くほどきっぱりと認められた。俺は怖かった。情けないほど辛くてたまらなかった。あんなところ、戻ってたまるか。音楽を聴くのもしばらく嫌だった。誰かの前で歌うことすら、もう一度できるかどうかわからなかった。

 痛んで仕方ない背中を庇いながら、数日、死んだように過ごした。音楽がなくなると、自分には驚くほど何もない。空虚な毎日だった。ただ息を吸って吐くだけ。

 外を出ることが怖い。誰もが卑しさと軽蔑のこもった目で自分を見ている気がする。ちらりと目線が合うだけで鳥肌が立つ。

 心も身体も傷だらけ。身体の方は放っておけば回復していくが、心の方はそうもいかない。

 眠るたびに短い悪夢を何度も見た。朝起きたら、部屋が荒れていて、女が怯えて隅に後じさっていたこともあった。「陽ちゃん、どうするこれ、捨てておこうか?」心配した様子でギターに手を伸ばされて、思わず「触るな」と声を荒げてしまった。女は泣きそうな顔をして肩をすくめる。

 ――ああ、だめだ、こんなの。

 真正のクズに成り下がる前に、これ以上あの子を傷つけないために、立川は自ら女の家を出た。どこか遠く、自分のことを誰も知らない場所に行きたかった。行く当てなんてどこにもなかった。

 彼は負け続きだった。あの賭けにも初めて負けた。「ニイちゃん、待ち合わせでもしてるのかい?」オーダーをしない立川に業を煮やし、店主が疎ましげな目を向ける。「うん、でもフラれたみたいだ。ごめんね、おじさん」逃げるようにその場を去った。惨めだった。

 流れて、流れて、結局昔の知り合いを頼る他なかった。一晩は、お互いに観客として交流のあった男友達の家に。フリーターをしながら小劇団の役者をしているヤツだった。「俺も金ないんだけどなあ」と渋る彼に頼み込んで、いくらか交通費を貸してもらった。その足で狩岡の家に向かった。

 立川は心得ていた。誰が自分を甘やかしてくれるのか。そうでないのか。

「……なんだ、そのザマは」

 久しぶりに見た狩岡は、痣だらけの立川を見て唖然としていた。

 持ち帰り仕事なのか、答案用紙の山がダイニングテーブルに見えた。生徒の下手くそな手のデッサンと、ぞんざいにつけられた赤い丸。

 立川は何も言わなかった。言えなかった。素直に被害を吐露できるほど彼のプライドは御しやすくはなかった。

「女の家から追い出されでもしたかよ」

「そんなとこ」

「……ばーさんは元気か」

「さあ。もうずっと帰ってない」

「そうか」

 泊めてほしい、一晩でいいから、と言うと、狩岡はなぜかすごく悲しそうな顔をした。

 夕飯食ったかと訊かれ、立川は黙って首を横に振る。食欲は。その問いにも同じようにした。

「空腹っていうのは想像以上に気を滅入らせるぞ。無理にでもなんか食ったほうがいい。――座っとけよ、たいしたもんは出せないけど」

「……ありがと、ヒサさん」

「なんだよ、妙に素直で気味が悪いな」

 そっちこそ、なんでそんなに優しくしてくれるの。怒って追い出したってよかったのに。

 そんなズルい台詞は無理やり呑み込む。父親への恩義に付け込んでいるのは他ならない自分だ。わかってる。

「暁美さんたちに挨拶してくるね」「ああ」

 彼が夕飯の、立川はリビングルームの一角に向かう。写真立ての中の写真は色あせてうっすら黄ばんでいる。写真の中で微笑む母と子。女は三十代、子どもは三歳くらいだろうか。目鼻立ちが狩岡によく似た女の子は、この世の汚いものなど何一つ知らなそうな無垢な表情をしていた。

 交通事故だったと聞いた。傍らの花瓶は、いつ来ても萎れている花が刺さっているのは見たことがない。「タカとはこんなところまでお揃いにならなくてもな」何かの折、そんな冗談を彼が言っていた。

 線香をつけ、お椀のような鈴を鳴らした。特に何を祈るわけでもないが、指を組んで目を閉じる。「仏壇でその手の合わせ方はいつ見ても違和感あるな」立川の手元を見ながら狩岡が薄く笑った。

 音楽、やめるかもしれない。そう言っても、彼はいつも通り「そうか」と言うだけだった。

「まあ、好きにしろよ。お前の人生なんだから」

 出されたお茶漬けを、もそもそと食べ始める立川。ふやけたご飯の甘さが身体に沁みていく。

「これに懲りたら一回くらい真面目に働いてみろ。ホストとか天職だろ。歌舞伎町にでも行ったらどうだ」

「無理だよ、酒飲めないし」

「一生ジゴロやってくつもりか?」

「古いなあ、その言い方。ジジイが出てるよ」

「叩き出すぞ」

 いつもの軽口。茶碗に口をつけながら、ほんの少しだけ、立川は笑う。

 口にはしないけれど、この人はわかってしまっているのだろう、と思った。俺がどうしてここにいるのかも。俺が結局、ギターを手放せないことも。

 立川陽介にとって音楽は人生そのものだった。

 父親とのほとんど唯一の繋がりであり、光であり、呪縛だった。



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