人間は考える葦である ――パスカル (7)

 瑠璃と李音が安ホテルにいた頃。

 日野は運休と遅延ばかりの電車を乗り継いで、どうにか帰ってきたところだった。

 傘も申し訳程度にしか役に立たないほどの雨だった。昨夜のような雷がないのはまだいいが、外では雨が滝のように降り続いていた。

 重たい溜息をつき、日野は背広を椅子の背に放り投げる。どさりと座り込んだ。ストロングチューハイのロング缶を開け、一息に四分の一ほど飲み干した。夕飯はまだ摂っていない。空きっ腹に、喉を焼くキツいアルコール。

 災害級、五月の降水量としては史上最大と謳うほどの雨すら意に介さない職場には、ずっしりと湿った苛立ちと疲労感が漂っていた。雨だろうが風だろうが仕事が減るわけではない。さっさと帰りたい、という一心でいつもの数割増しで早く仕事を仕上げても、雨のせいで通勤時間も数割増しなのだからやりきれない。挙句の果てには「普段からこのくらい頑張ってほしいんだけどね」と上司から小言を言われる始末。

 アルコールが回ってくると、荒んだ気持ちの角も取れる気がした。

 強い安酒を煽りながら、日野はある英国の風刺画を思い出していた。ある貧困街の一角、ジンを飲んで、あるいは求めて荒くれる人々。嗅ぎ煙草をつまみながら赤ん坊を取り落とす娼婦やら、酒瓶を片手に息絶えた骸骨みたいな男やら、泣き声を鎮めるためにジンを飲まされる赤ん坊やら、とにかく地獄絵図だった。当時ジンはミルクより安かったのだというのだから驚きだ。

 当時の、貧しく過酷な労働者階級がこぞって粗悪なアルコールに手を出した気持ちが、日野には少しわかる気がする。そうでもしないと、彼らには目の前の日常をやり過ごせなかったのだろう。劇的なことなど何もなく、希望もなく、ただ緩やかに死に向かって衰退する日々を。

 しばらく何も考えずに雨音を聞いていた。仕事柄、一日中パソコンと睨み合うせいで、頭と肩が重かった。首を回すとびっくりするくらい大きな音が鳴った。

 ふと、着信音が静寂を割り裂いた。億劫そうに手を伸ばした日野は、発信元が渋木の番号だと見るや、弾かれたように居ずまいを正した。

「渋木?」

「あ、……日野さん?」

 本人の声だ。いつもより張りのない声と咳き込む音に、一瞬緩んだ緊張が舞い戻る。

 体調が悪いのか。

 まわりかけていた酔いが一気に覚めた。

「えっと、オレじゃうまく喋れないから、ちょっと代わるよ」

 一呼吸ほど間をおいて、年配の女の声。医者だと名乗ったその女は、事務的な様子で淡々と告げる。

 渋木は路上で倒れ、汚水に浸かったことにより、低体温症と肺炎にかかった状態のまま意識を失っていた。通行人により発見され病院へ担ぎ込まれた渋木は、今は無事病状を回復しつつある一方、豪雨災害による重軽傷患者は増えるばかりで、病床の確保が追い付かない。彼は保険証どころか現金も持っていない。このまま帰すわけにもいかず、その上彼の住んでいた地域は浸水警戒地域で、行く当てがない。

 要するに、渋木蓮を引き取ってほしいという旨の連絡だった。

「……ごめんなさい、日野さんしか頼れる人がいないんだ」

 どういうことかを尋ねる前に、渋木の声が重なる。「他に誰も連絡がつかなくて、母親も、立川さんも、瑠璃ちゃんも、誰も」

 憔悴しきっているのが声色だけでわかった。それだけで、日野には他人事ではなくなった。

「わかった。迎えに行くから。とにかく落ち着け、な」

 半ば自分に言い聞かせながら、日野は背広を拾い上げる。

 打算から言えば、親族でもなんでもないのだから、彼を引き取る責任などない。自分一人生きるのが精いっぱいの今、彼にかまってやる余裕はないのかもしれない。何かと理由をつけて断るのは簡単だ。

 だが良心がそれを許さなかった。

 良心、と言うときれいすぎるかもしれない。所詮は自己満足だ。日野はただ後悔したくなかった。他ならない自分自身のために。

 今思えば、高校にいる間も、彼はひっそりとSOSを出し続けていた。百円そこらのパンを盗むという彼の万引きは道楽ですらなかった。襟ぐりの汚れた制服。面談にも家庭訪問にも応じない母親。延滞された納入金。彼の家庭が半ばネグレクト状態にあることには、薄々感づいていた。修学旅行の申込書の不参加に丸をつけたのは学年で彼だけだった。「うち、ビンボーだから」と必要な教材を買わず、授業中も寝ていた彼を、困った生徒だと思っていた。「夜までバイトだから眠いんスよ。しょうがないじゃん」と言った彼の生活に、理屈だけで割り切れないものがあると知りながら、日野は「学生の本分は勉強だろ」と判で押したようなことしか言わなかった。「オレなんか、居たってメーワクなだけでしょ」自主退学を申し出た時、渋木は、何もかもを諦めたような顔で笑っていた。あれは自分が渋木を拒絶し続けた結果だ。わかっていた。

 二度も見捨てることなどできるはずがなかった。

 傘をひったくるように手に取り、日野は嵐の中へと躍り出る。風に煽られながら施錠し、駅前へと向かいながら、不意に日野は気が付いた。

 善く生きること。

 それはもしかしたら、良心に従うという、たったそれだけなのかもしれない、と。


 タクシーを使えば、病院まではいくらもかからなかった。深夜であることもあり、受付は既に明かりが消えている。事情を説明し、緊急外来から病室へと通してもらった。

 渋木は既に身支度を整えていた。気の毒になるほど荷物が少なかった。聞けば、李音を探している途中でどうしても身体が動かなくなり、そのまま意識を失ってしまったらしい。あの雨の中、傘も持たずに歩き回っていれば、無理もなかった。

「お兄さんですか?」

 看護師の一人に訊かれる。

「勝手に兄貴ってことにしちゃった、すいません」こっそり耳打ちされる。

 随分とでかい弟ができたものだ。日野は少しだけ笑って、そのまま看護師や医者と適当に話をつけた。数日分の薬が入っているという袋を渡される。

 渋木は始終俯いていた。数日の入院と衰弱もあり、彼は随分としぼんでしまったようなように見えた。食事はほとんど口にしていないというから、帰ったら消化にいいものを作ってやらなきゃな、と思う。長年の悪しき習慣で、家にほどんど食材がないのが憎い。

 保険証は持っていない、どこにあるかもわからないというだけあって、数日の入院費は馬鹿にならない値段だった。怯んだのを表に出さないよう、てきぱきと精算を済ませる日野を、渋木は気後れした様子で伺っていた。

「……すいません、迷惑ばっかかけて」

「謝ることじゃない。出世払いでいいよ」

 電車はとっくに止まっていたから、そのままタクシーを拾った。すれ違いざまに救急車が病院の奥に滑り込んでいった。渋木はそれを目で追いかけ、それからハッとなって俯いていた。

 まだ呼吸は辛そうだった。時折小さく咳をしながら、渋木は話をした。兄弟同然に暮らしていた、李音という幼友達のこと。二年も家を空けていた母親が、突然帰ってきたこと。自分に、というよりは、ただ誰かに話したいように見えた。時々相槌を挟みつつ、日野はじっと話を聞いていた。

「その子、今瑠璃と一緒にいるぞ」

「マジっすか!」

 身を乗り出す渋木。グループチャットに送られてきた二人の自撮り写真を見せると、渋木は涙の滲んだ声で「よかった」と呟いた。映画館の中、瑠璃と、ポップコーンを抱えた少年のツーショット。

「見てなかったか」

 なんでもスマホの電源が切れているらしい。渋木の端末は日野のものとは機種が違うから、充電器も買う必要がありそうだ。

 適当なところでコンビニに寄り、今日明日の分の食材と、渋木用の充電器を買った。「何か好きなもの入れていいぞ」と籠を示したら、渋木はチョコチップの入ったスティックパンを持ってきた。日野は呆れたように笑いながら、どこか切なかった。彼の偏食ぶりはさんざん目の当たりにしている。野菜の大半を食べられないのは、子どもの頃の食生活も影響しているのだろう。もっとも、自分が憐れむのは筋違いなのだろうが。

「だってこれ、百円で六本も入ってるから、コスパいいんスよ」

「わかったよ。入れろよ、ほら。……梅干し食えるか?」

 粥のパックを示して尋ねると、激しく首を横に振られる。

 玉子粥ならたぶんいけるというので、とりあえず二つ、籠に入れた。

 レトルトの粥、三玉入りのうどん、卵、めんつゆ、スティックパン。二リットルのスポーツドリンク。歯ブラシ。充電器。ものがいっぱいに詰まったかごをレジ台の前に置く。こんなにたくさんものを買うのは久しぶりだった。普段は食事もその都度どこかで買うか、野菜炒めかインスタントラーメンを作るのが関の山だ。俺の料理は果たして彼の口に合うだろうか。

 家に着く頃には一時を過ぎていた。

 冷蔵庫に食材をしまいながら、改めて冷蔵庫の寒々しさを目の当たりにする。買ったものを仕舞っても、空白ばかりだった。ついでに、テーブルの上に置きっぱなしにしていた酒の缶に手を伸ばす。

「もう寝る? それともなんか食うか?」

「今日ずっと寝てたし、眠気はあまり。……お腹空いたかも」

 とはいえ、入院中はほとんど食事を摂っていないとも聞いている。「今日はお粥だな」と言うと「ええー」と渋い顔をされたが、聞き流しながら器に袋を開けて、電子レンジで温めた。

「お粥苦手なんすスよお、ドロドロしてるし、味ないし……」

「そんなこと言ったって、いきなり重いもの食ったら身体がびっくりするんだぞ」

「そーなの?」

「そうだよ」

 粥を出してやると、熱がったり顔をしかめたりしながらも、渋木はぺろりと一人前を食べた。食欲があることに安心はしたが、熱を測ってみるとまだ七度台後半と高かった。

 食器を洗うのは後回しにして、部屋の真ん中を陣取っていたローテーブルを隅に押しのける。幸い、母親が来た時のための来客用布団が一組置いてある。渋木をベッドに寝かせようとしたが、「オレ、布団のほうが慣れてるから」と、渋木は遠慮した。

 自分の家に誰かが泊まるのは、どこか久しぶりだった。寝間着は自分の分を着させたが、少し窮屈そうだ。大きいサイズのものはないか、洗濯物を漁っていると、女物のTシャツを一枚見つけた。「カノジョのやつッスか、なんか生々しいなあ」と横から茶々を入れられる。

「ヨリ戻さないの?」

「戻さないよ」

 すんなり出てきた自分の言葉に、自分で驚く。こういうところ、だろうか。彼女に「そういうところよ」と言われてしまったのは。苦々しいような、少しだけ痛いような、微妙な気持ちのままTシャツをゴミ箱に捨てた。

「ほら、良いから寝ろよ。まだ万全じゃないんだから」

 目を塞ぐように電気を消した。

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