人間は考える葦である ――パスカル (6)
今日はひときわ雨が強い。長引く雨は地盤の緩みや下水の逆流も引き起こしているらしい。浸水した地域も増えて、この辺りも警戒情報が出ている。
だから、まだ営業しているホテルはなかなか見つからなかった。李音はまっすぐ避難所に行くと恐縮していたけれど、せめて温かいお風呂に入れてあげたかった。渋木が李音の面倒を見たがる気持ちが、なんとなくわかった。
あの子はとてもしっかり者だけど、どことなく危ういのだ。こちらが無理に繋ぎとめていないと、ふらっとどこかに行ってしまうような気がしてならない。
どの道、家にまっすぐ帰る気にもなれなかった。帰宅をずるずると先延ばしにして、引っ越しのために溜めていた貯金を切り崩した。
李音はお風呂に浸かっているところだ。急なことで、一部屋しか取れなかった。李音の泥だらけの服はコインランドリーで洗濯して、乾燥機にかけている。着替えのひとつでも買ってやりたかったけれど、李音は頑なに拒んだ。
手持無沙汰だったから、ベッドに腰かけてテレビをつけた。報道番組のようで、李音の集落の近くを流れている川が、増水によって堤防が決壊したことを告げている。今もなお増水を続けているらしく、たくさんの家々がその中に巻き込まれた。取り残された人がヘリコプターで救助される映像。
「危険な地域であると知りながら、なぜ住人の皆さんはあそこに住んでいたんでしょう」
「避難勧告も出ていたんでしょう? 救助の人もたまったもんじゃないですよね。あそこに残っていた人にも責任はあるんじゃないですか?」
そんな意地悪なコメントごと、テレビを消した。
風呂場の扉があく音がした。「アメニティてすごいね、シャンプーとかもあるんだね。バスローブも初めて着た」と、ピンク色になって出てきた李音はハイテンションだった。それがなおさら痛ましく見えた。
自分に帰る場所がないことが分からないほど、この子は馬鹿じゃない。
「なんか飲む? それともお腹空いた? ピザでもとろうか」
「ピザっ?」
李音が目を輝かせた。そんなに好きなのか、と思っていたら、「そういうの、一回やってみたかったの、出前!」と、こちらに身を乗り出してくる。
ローテーブルに置かれているピザ屋のチラシを、李音が興味深げに眺める。「色んなのがあるんだねえ」とひとりごち、長いこと悩んでいた。天の神様の言う通り、と指をさしてみたり、傍らの備え付けの便箋に何やら書き込んでみたり、随分とそわそわしている。瑠璃は、珍しい動物でも観察するように、小さなことに一喜一憂する李音を眺めていた。
夕食のあとは、部屋に据え置きのお茶を沸かして、二人で飲んだ。夕飯とお風呂を済ませると、さすがに気が緩んだらしく、李音は少し眠そうな目をしていた。
「ぼくがなんで蓮ちゃんの家を出たのか、聞かないの?」
ごろんと寝そべって、李音がこちらを仰ぐ。こうして見ると、本当にまだ若いし、幼い。自分がその年頃だった時は、自分はとっくに大人の仲間だと思っていた。
二人で一部屋の宿泊。夜のお喋りは、修学旅行の夜みたいで、不思議と懐かしい。額を寄せ合ってひそひそとお喋りをした時代が、ひどく遠く思える。
「話したいなら聞くよ」
「ずるいなあ、それ」
そう言って、李音は例の、眉を寄せる寂しげな笑みをした。仕草や口調はまだ子どもなのに、瞳だけが大人びていた。
あの夜、渋木の母親が帰ってきたこと、それから起こった出来事を、李音はぽつりぽつりと語る。もう、無理に弾んだ声音ではなくなっていた。
「……ひどい」
身寄りのない未成年を前に、どうしてそんなことが言えるんだろう。瑠璃の反応を見て、「しょうがないんだよ」と、李音が肩をすくめた。どこか弁明するような口調だった。
「そうすることでしか、あの場所では生きていけないんだ。油断したら奪われるのは当たり前だから。誰かと何かを分け合う余裕なんて、誰もない。
だから、蓮ちゃんの善意に甘えちゃってたぼくのことを、面白く思われないのは当然なんだ。だってドロボウと一緒だから」
「でも普通は、子どもを追い出したりしないと思うよ」
「あそこでの普通はそうだったんだよ。誰かを助けても、自分が生き延びられなきゃ意味がない」
心配になるほど、李音はひたすら自虐的だった。
「……だからぼくは、蓮ちゃんや瑠璃ちゃんがすごく怖いの」
「怖い?」
「うん。見返りのない善意だから。ぼくの知らない世界だから」
瑠璃は何も言えないまま、ぬるくなったお茶に口をつけた。
「瑠璃ちゃんはひどいって言ったけど、蓮ちゃんのお母さんは、掃き溜めではとびきりまともな方だよ。ちゃんと働いてるし、ギャンブルに生活費を全部使ったり、子どもにお酒や煙草を盗んでこさせたり、事あるごとに殴ったりしないもの。蓮ちゃんのお母さんは不器用だけど、本当はあったかくて、さっぱりした人なの。だから蓮ちゃんも、あんなに優しいんだろうね」
「……李音は?」
「ぼくは……親父から叩かれるのはいつも梓音だったから、それでもぼくは恵まれてたよ。梓音がいつもぼくを庇ってくれた」
集落には高校に行くことすら叶わない子もいるのだという。梓音もその一人だった。李音の進学のために、自ら進学を諦めた。制服も、学用品も、とても二人分を賄うことはできなかった。双子というだけで家計の負担は倍になる。父親には「お前らなんで二人で生まれてきちゃったんだよ」と、冗談まじりによく言われていたらしい。
「ぼくがいなかったら、梓音も学校に行けてたのかなって、時々考えちゃう。ぼくは梓音に、色んなものを犠牲にさせてばかりだから」
「……辛いね」
「ぼくにはそんなこと言う資格、ないよ」
李音は枕に顔を伏せた。その大きな目に涙の粒が浮かんでいたのが、瑠璃には見えていた。
「ああでも、あれは嫌だったな。夜になると、隣で寝てる親父が、ぼくの身体触ってくるの。梓音が知ったら怒るって親父もわかってるから、こっそり」
わざとらしく笑い飛ばして、「もう寝よっか」と李音は言った。「ぼくもう眠くなっちゃった」
深いことは、聞いた方がいいのかわからなかった。聞けなかった。
いくつも年下の子どもだと思っているこの子が、なんとなく、ほんの少しだけ、怖い、と思った。
明かりを消して、ベッドにもぐりこむ。「これって同衾だね」「ベッドふかふか。ふふふ」と笑っていた李音は、すぐに小さな寝息を立て始めた。それにどこか安心しながら、瑠璃はなかなか寝付けなかった。
それでも、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。ベッドの中で動く気配がして、瑠璃はうっすらと目を覚ます。うたた寝の隙間で細く目を開けると、李音が机で何か書き物をしているのが見えた。
翌朝目を覚ましたら、李音はいなくなっていた。
空は嘘みたいな青空だった。カーテン越しに真っ白な光が差し込んでいた。
「るりちゃん、ごめんね。ありがとう」という置手紙と、三つ折りにされた数枚の便箋を残して。中には殴り書いたような文字がびっしりと綴られていた。悲鳴のように見えた。
寝ぼけていた頭が一気に覚めた。血の気が引く、というのは婉曲ではないらしいと今更知る。便箋を持つ指先が、自分でもわかるほど、温度を失って冷たくなっていく。
丁度のタイミングで通知が来る。日野から倫理観のグループLINEへ、渋木を保護したという連絡だった。
安堵する反面、いてもたってもいられず、瑠璃は日野に電話をかけた。通話はすぐにつながった。
「もしもし」という声に、「日野さん、どうしよう」と言ったきり、何を言ったらいいのかわからなくなる。思いつくまま口走った。
「李音、死んじゃうかもしれない。どうしよう」
声が震える。泣きそうだった。
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