人間は考える葦である ――パスカル (8)

 祝福の代わりに拒絶を、期待の代わりに蔑みを、愛の代わりに罰を与えられ、掃き溜めの子どもは育つ。

 時間、金、自尊心、未来。あらゆるものを奪われ育った子どもたちは、いずれ親になり、今度は子に人生を奪われていく。人間が生きるためには時間と手間と金がかかる。親になったかつての子どもは、そして自らの子を呪う。「こんな子どもさえいなければ」と。かつて自分がやられたように、子どもを叩く。

 これはあの貧困集落に連綿と続く呪縛だ。あの場所ではさしずめ、家族とは何かを与え合うものではなく、一ヶ所に集まる金や住居や食べ物を奪い合う集団でしかなかった。血が繋がっていようが、同じ場所で暮らしていようが、結局は異なる人間同士の――他人の集まりでしかないから。

 それが当たり前だった。そんなものだと思っていた。李音がうちに転がり込んでくるまでは。

 小さく身を縮めて助けを請う李音を見た時、渋木は胸がぎゅっと締め付けられた。そして同時に、梓音はあの家の中で――近所中に怒号と暴力の音が鳴り響く家の中で――今まで懸命に李音を守っていたのだと察した。

 罪悪感もあった。小さい頃から、無力な子どもにすぎない自分には何一つできないと思って、聞こえてくる物音の一切に耳を塞いでいた。彼らを守る方法も、救う方法も、何一つ知らなかった。

 李音を匿おうと思ったのは、贖罪のつもりだったのかもしれない。

 最初、李音は、物音に怯える以外は、昼夜ぼーっとしていた。体育座りで、どこかを虚ろな目で見ているか、眠っているか。しばらく李音にはそれしかなかった。

 しばらくすると笑うようになった。冗談も言い合えるようになった。自分の作った適当な料理を大袈裟に褒めてくれた。ただ寝るためだけにあった家が、帰ってきたい場所になった。

 いつ爆発するともしれない爆弾がなくなってからは、李音も勉強に精が出るようで、いつも一生懸命だった。遅くまで電灯がともっていることも多かった。自尊心をくじかれても、経済的な壁が立ちはだかっても、「貧乏人が高望みすんなよ」と学校で揶揄われても、「大学に行きたい」と必死に進む彼のことを、年下だけど渋木は尊敬していた。

 ひたむきで、一生懸命で、自分よりもずっと可能性があって、だけど少しだけ不幸な李音に、幸せになってほしかった。それだけだった。「辛」という字に一を足せば「幸」になるのなら、自分がその「一」を与えられる存在になりたかった。

 自分が望んだ幸せは、たったそれだけだったのに。

 神様はどうして、オレたちから何もかもを奪うのだろう。


 翌朝、渋木は一人で目を覚ました。

 外には、昨晩までの嵐の面影など伺えない、憎々しいほどの晴天が広がっていた。

 日野はすでに出勤しているらしい。食べられそうなら何か食べて寝ているように、何か欲しいものがあったら買って帰る、との書置き。

 たいしたお節介の焼きようだ。極めつけは、自分を一人で置いていくその不用心さ。オレが金目のものでも漁って逃げたら、この人、どうするつもりなんだろ。いや、そんなことしないけど。

 本棚に英語の参考書やら赤本やら「授業資料」と書かれた分厚いファイルやらが並んでいること以外は、部屋は殺風景すぎるくらいだった。雑然とモノで溢れていた自分の家とはまるで違う。

 燃え殻が残ったままの灰皿。埃をかぶった薄型テレビ。生きているはずなのに死んでいるみたいな部屋。スタンドに置かれた赤いギターだけが、その中で異質だった。

 今日のバイトも夜からだったっけ。一昨日は休みだったはずだけど、昨日バックレたから、店長、怒ってるだろうな。そう思ってスマホを見たら、やっぱり、怒り心頭な店長からの不在着信があった。何かから逃れるように習慣的にテレビをつけ、真っ先に目に飛び込んできたのは、自分の家があったあの集落が濁水に浸っている映像だった。見覚えのある公園の遊具の、赤く錆びた頭だけが見えていた。

 渋木は途方に暮れるしかなかった。いよいよ自分は帰る場所をなくしたのだと思い知った。これから自分がどうすればいいのか、まるでわからなかった。まさか、ずっと日野の世話になるわけにもいかない。

 手の中でスマホが震えた。びっくりして取り落としそうになる。発信元は公衆電話。そういうときはだいたい、李音からだ。

「蓮ちゃん?」という声は、いつも通りに聞こえた。それにすごく、心の底から、どっと緊張が緩んだ。

 受話器の向こうで、雑踏の気配がする。アナウンスのようなものがうっすら鳴っている。

「よかった、出てくれて。蓮ちゃん、今何してる? 大丈夫? 元気?」

 続けざまに質問が来る。「元気だよ、大丈夫」答える声が思わず涙ぐんだ。そっちこそ、と尋ね返そうとする前に、「あのね」という声に遮られる。どこか切実な調子の声音。

「今まで本当にありがとう。すごく楽しかった。蓮ちゃんの作ってくれる焼きそば、好きだったよ」

「李音?」

「蓮ちゃんのドラム、もう一回聞きたかったな」

 どうも様子がおかしい。間もなく二番線に東京行きの電車が参ります、とアナウンス。

「ぼくを拾ってくれて、助けてくれて、本当に本当に、嬉しかった」

「おい、李音!」

「じゃあね。大好きだよ、蓮ちゃん」

 がちゃん、と受話器の下ろされる音がした。


 瑠璃から電話を受けた日野は固まっていた。駅のホームで電車を待つ列に並んでいる最中のことだった。通勤ラッシュでごった返す人の中でも、彼女のはっきりした声は難なく耳に届いた。

「日野さん、どうしよう。李音、死んじゃうかもしれない。どうしよう」

 向かいのホームで、快速電車が目の前を通り過ぎていく。

「え?」

「私、昨日から一緒にいたんです。ホテルに泊まったの。朝起きたらいなくて、手紙があって」

 半ばパニックになった様子で、瑠璃がまくし立てる。手紙の内容について詳細を伏せながら、それがとにかく遺書めいたものであったことを告げる。

「……行き先に心当たりは?」

「わからない。あの子、ほとんどお金も持ってなかった。持ち物もほとんどなくて、携帯電話もない。定期券くらいです。そう遠くにはいけないと思うんです」

 狼狽している瑠璃を宥め、「渋木にはこちらから言っておく」と電話を切る。何かあれば警察にも行くようにと伝えた。

 予定の時刻を過ぎているのに、電車はなかなかやってこない。

 定期券、というのが妙に引っかかっていた。

 死のうと思えば人はどこでも死ねる。車道があれば車の前に飛び出すことができるし、歩道橋からもビルからも飛び降りようと思えば飛び降りれる。

 日野にとって身近な死に場所は、何より駅のホームだった。連日のように人身事故が起こっては電車が止まる。自分だって、あの黄色い線の外側に足を向けようと考えたことがないわけではない。

 黄色い線。あの世とこの世の境界。

 お客様にお知らせいたします。駅員のくぐもったアナウンスが告げる。

「――駅で発生した人身事故の影響で、ただ今××線の東京行きの電車は、運転を見合わせております」

 今日もまた一人、誰かが黄色い線を越えた。

 舌打ちをする人。顔をしかめる人。慌てて会社に連絡をする人。種々様々な人ごみの中で、日野はまた電話を受ける。今度は渋木からだった。李音から電話があったのだという。

「なんか様子がおかしかった。思い詰めてる感じで、後ろで聞こえてた音、たぶん、駅だと思うんスけど」

 日野はたった今受けた瑠璃からの話を渋木に伝えた。渋木は「そんな」と嘆くように言ったきり、言葉を失った。

 日野は電光看板を見上げる。先発、の横にあった電車の到着時刻が表示されなくなっている。遅延情報はぐるぐると繰り返し表示されている。日野はその駅名を静かに渋木に告げた。


 渋木は走った。気持ちだけが先走って、うまくついてこない足がもどかしくて仕方なかった。寝込んでいる間に、随分体力が落ちてしまったようだ。東京の駅間は狭い。日野が言っていた駅までは、幸か不幸か、自分の足だけでも行ける距離だったが、着く頃にはふらふらになっていた。

 小銭を投入して、一番安い入場券を買った。なだれ込むようにして構内に入る。息はとっくに切れていた。サラリーマンとぶつかりそうになって、露骨に迷惑そうな顔をされる。

 人が溢れかえっていた。騒乱と人いきれの中に、渋木は生臭い血の匂いを確かに感じた。この先で誰かが死んだのだ。「飛び込んだの、女子高生だって」と誰かの声が聞こえた。「すみません、電車が止まってしまいまして」電話の向こうに向かって平謝りしていた人が、「社会人ならそれも見越して早く来るんだよ! 常識だろ!」と電話口で怒鳴られていた。

 吐き気と酸欠で頭が真っ白になりそうだった。

 ホームには入場規制がかけられていた。入り口を封じている駅員が、中年の背広の男に怒鳴られていた。「どうしてくれんだよ、早く動かせよ。こっちは仕事なんだよ!」喚き散らす声が響いていた。「申し訳ありません」と深々と頭を下げる駅員。

 渋木は別の駅員に近づき、声をかける。「さっき、ここで起こった事故、なんですけど、っ」

「飛び込んだの、知り合いかもしれなくて。あのっ、髪短くて、背がこんくらいで、都立高校の、ズボンの制服で、」

 あたふたと焦るばかりの渋木を、駅員は静かに宥めた。

 飛び込んだのはだと駅員は説明する。つまり、だ。渋木の訴える李音の様相とは食い違う。

 ――よかった。李音じゃなかった。

 咄嗟にそう思ってしまって、その言葉の残酷さに戸惑った。李音じゃなくたって、誰かが死んだのには変わりないのに。

 自殺をした人がいる。そうなるまで追い詰められた人がいる。その事実は変わらないのに。

「あ、でも」

 駅員の言葉に、渋木は我に返った。再び身を強張らせる。

「さっき一人、過呼吸を起こして事務所に運ばれたんです。中学生か高校生くらいの、スラックス姿で髪の短い子です」

 行ってみますか、と言われるが早いか、「はい」という声は勝手に口から出ていた。

 

 李音の姿を目に留めた時、渋木の喉元には、安心と不安とが同時に押し寄せた。

 久しぶりに見る李音は、前よりもいっそうやつれてしまったように見えた。青白い顔をして、李音はただ俯いていた。事務所に入ってきた渋木には一瞥もくれず。

 まるで、自分の家に逃げ込んできたばかりの時の、彼の様子そのままだった。光も届かないほど深いところに沈んでしまっているような、耗弱。

「李音」

 名前を呼んだ。反応も返事もない。

「李音!」

 怒るような声音になった。肩を掴んで、その薄さに動揺した。傍にいた駅員が、何か咎めるようにこちらを見ていた。

「一体どれだけ心配したと思って、――」

「……ごめんなさい」

 震えた、押し殺すような声。だけど感情はなかった。

 違う。怖がらせようと思ったわけじゃなかったのに。渋木は混乱する。李音は唇を噛んで押し黙っている。

「一緒に帰ろう」

 諭すように優しく、渋木は言う。だけどその胸のうちにはぐるぐると疑問が渦巻いていた。

 どこへ?

 家は流された。母親の安否もわからない。待つ人なんかいない。

 オレたちにはずっと帰る場所なんかなかった。オレたちはずっと、この世の色んなものから拒絶されてきて、それでも生きていくしかなかった。

 渋木は気づく。李音の疎外感は、きっと自分の感じていたよりも、ずっとずっと大きかっただろうということ。

 アルバイト先でつらく当たられる話は聞いていた。学校で遠巻きにされるのは、あの集落の子どもなら誰もが通る道だった。まして李音の通う高校は、文化圏までまるっきり違う生徒ばかりだ。

「ぼくね」

 そして渋木の母親が帰ってきたあの日、李音は純粋でまっすぐな拒絶を受けた。

「自分がどこにもいちゃいけないんだって思ったの」

 李音は突如として自分の居所がどこにもなくなった。

「ぼくなんか、いなくなった方がいいんだって思った。蓮ちゃんにも、瑠璃ちゃんにも、誰にも迷惑かけたくなかったの。みんな、大好きだから」

 ぼくなんか。オレなんか。私なんか。掃き溜めの子どもたちの口癖。

 なんで生んだの、と母親に言ったことを思い出した。

「だけどね、ぼくが尻込みしている間に、一足先に女の子が飛び込んだ。先を越された。すごく暗い顔をしててね、ああ、この子はぼくと同じだって、すぐにわかったんだ」

 望まれず、期待をされず、拒絶を受け続けた人間の行きつく先は、いつしか自分が生きることすら肯定できなくなることだ。どこにでもある、ごくありふれた話。

「そうしたらあの子、何て言われたと思う?」

 電車に身体がぶつかる音がして、そのまま女の子は車輪の下敷きになって、しばらくして電車がぎこちなく止まった。その時誰かが囁いた。「うわ、最悪」「死ぬなら一人で勝手に死ねよ」「ね」いかにも迷惑そうに、顔を寄せて耳打ちしあう人たち。

「今日電車に飛び込んだのは、もしかしたら、あの子じゃなくてぼくかもしれなかった。生きても、死んでも、跳ねのけられるなら、ぼく、どうすればいいんだろうって、わからなくなった」

 そこまで言って、李音は短く切るような呼吸を繰り返した。李音が慌てた様子で口元に袖を当てた。詰め所に残っている駅員が忙しそうに連絡を取り合う。彼らの目線もまた心配そうにこちらを見ていた。

「蓮ちゃん、ごめんね」か細い声がした。

 ぼくなんかのために、ごめんね。そう続いて、胸が詰まった。

「謝んなくていいよ」

「……怒ってない?」

「怒ってない」渋木は李音の肩を掻き抱いた。目からじわりと熱いものがこぼれた。「怒ってないよ」

 李音は渋木の腕の中で、その小さな身体を固くしていた。その弱々しく細い肩に、渋木は顔を押し付けた。涙は次から次へと零れた。洟をすする。子どもみたいに泣く渋木のことを、李音はどこか当惑した様子で受け止めていた。

 自分勝手な感情だとわかっている。それでも口にせずにいられなかった。

「李音が生きてて、よかった」

 少なくとも一人は、自分が生きていて喜んでくれる相手がいると、知ってほしかった。

 これがどれほど残酷な言葉でも構わなかった。

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