人間は考える葦である ――パスカル (3)

 大ぶりの傘を深く差しながら、立川陽介はこちらにやってきた。大粒の雨が地面に叩きつけては、彼の仕立てのよさそうな裾や靴を濡らす。

 気持ちばかりが逸る。「立川さん!」瑠璃の声が雨音の中に消えていく。

 打ち付ける雨の音が鬱陶しい。

 濡れた地面が駅前の雑然とした光を返す。瑠璃を認めると、その上を踏みしめるようにしながら、立川はこちらに駆け寄ってきた。

 いつもなら軽口の二、三でも交わすことろだが、立川は単刀直入に切り出す。

「で、どこだよ」

「こっちです」

 朧気な記憶を辿りながら、瑠璃は先導する。

 秘密の場所。李音と一度だけ訪れた、取り残されたような教会の隙間。あの少年が言っていたのは、きっとそこだ。

 行ったのは一度だけだし、随分前のことだ。道も細くてごみごみとした路地ばかりだった。夜半に女の一人歩きをするには、とても安全とは言い難い。だから立川を呼んだ。

 雨どいから激しく水が溢れている。排水能力を上回る雨は、道を深い水たまりに変えた。レインブーツの中に水が入って気持ち悪い。

 立ち並ぶビルの隙間を、苛立ち混じりに歩く。案の定迷って、瑠璃は自分がどこにいるのかもわからなかった。

 自転車を見つけたのは偶然だった。

 前に一度ここに来た時。李音は雨どいに自転車を固定して、奥の道へと進んでいたはず。

 傘も差せないほど狭い道幅を、濡れながら走る。左手には教会。雨雲を尖塔の形に象っている。やがて、地下へと続く真っ黒な階段を見つける。――ここだ。

 屋内に入ってしまうと、雨音が随分と遠く聞こえた。じめじめとした室内は、響く音もどこか湿っている。道がどんどん狭くなる。瑠璃は躊躇なく足を進めた。その間、立川は大人しく後ろを付いてきながら、どこか周囲を警戒するようなそぶりを見せていた。

 光源は手元のスマホだけ。手さぐりで進み、やがて例の小部屋に出る。

「りおんー?」

 暗い部屋を恐る恐る照らすと、不意に人の頭が照らし出される。瑠璃は飛びのいた。

 その頭も華奢な手足も、冷たい床に力なく投げ出されていたから。

 ゆっくりと近づく。瑠璃も知っている都立高校の制服から、白い手がだらりと伸びている。くりくりした短い髪。

 脈を取ろうと手首に触れて、そのあまりの冷たさに驚いた。手首をいたずらに握ったって、脈があるのかないのか瑠璃にはわからない。そのことにますます焦って、頭が真っ白になった。

「貸してみ」

 いつの間にか背後に立っていた立川が、李音の手をひょいと取る。彼はていねいに李音を仰向けにして、鼻の下に手をあてがった。瑠璃はハラハラしながら、黙って見ていることしかできなかった。

「脈はある。一応呼吸もしてる」

 胸を撫で下ろしたのもつかの間、う、と苦しそうに唸りながら、李音がわずかに眉を寄せた。その額に立川がそっと手をおいて、少し顔をしかめた。

「ブレザーが濡れてるし傘もないから、ここまで濡れてきたんだろうな」

 りおん、と立川が静かに身体を揺らした。その手つきと声が見たことないほど優しかった。

 もう一度、苦しそうに顔を歪め、李音がうっすらと目を開ける。頭はまだはっきりしないらしい。「身体、起こせる?」背中に手を添える立川。ぎこちなく上体を起こし、李音がぼんやりしたままの目で立川と瑠璃とを交互に見た。

「こんなトコでよく寝れるな」

「……平気だよ。床で寝るのは慣れてるもの」

 返事の代わりに、立川の手が李音の頭をそっと撫でた。

「こんなところまで来てくれたの?」

 声に、いつものような、跳ねるような元気さがない。

「梓音がこの場所にいるだろうってさ」

「……梓音にはかなわないなあ」

 梓音は勉強は嫌いだったけど、本当は、ぼくよりもずっと頭がいいんだよ。李音はそう言って、くしゃりと力なく笑った。

 ほとんど身一つで家を出たらしい李音は、飴がいくつかと、定期券と、ほんの少しの小銭しか持っていなかった。「よく生きてたな」と言いながら、立川が李音を担ぎ上げる。低い天井には通気口の蓋のようなものがついていた。そこが教会の講壇のあたりに通じているようだ。

「向こうを出るより、こっちの方が安全だろ?」

 李音を上に押し上げ、自身も軽々と上階にのぼる立川。

 瑠璃はそれを苦虫を噛み潰したような顔で見ていた。

 体育の成績は真ん中くらいだった。ピアノを弾くから握力はそれなりだけれど、あの位置まで自分の体重を押し上げる腕力は、たぶんない。

「ええ……私は無理ですよお……」

 天井の上から、立川がひらひらと手を降る。うんと背伸びをして、その手を恐る恐る掴んだ。引きずり上げられ、瑠璃は四角い空洞から這い出る。擦ったせいでお腹がひりひりと痛い。

「もうちょっと丁寧に……」

 途端、空気がぴんと張りつめたのが分かった。横にいる立川が、明らかに警戒心を強めている。

 妙だった。静かで、不穏な気配。

「ルリ、傘持ってるよな?」

 急に立川の声が固くなった。瑠璃は困惑しながら頷く。

「李音連れてそこの裏から出ろ」

 立川が親指で指した先には、表のものよりも少々控えめな木の扉。非常口の薄緑色が光っているのを見るに、勝手口のようだ。

「えっ、なんで」

「いいから」

 その目に有無を言わさないものがあった。瑠璃は戸惑いがちに李音の手を取った。李音と二人で顔を見合わせる。

「立川さんは……?」

「俺は野暮用。何かあったら声をあげて人を呼ぶこと。いいな」

 早く行け、と急かされるがまま、戸の施錠を解き、外へ出た。傘を叩く激しい雨。李音を内側に入れるが、この分だと二人とも濡れ鼠だ。

 不意に光が弾ける。雷だ、とわかった瞬間に、轟音が耳を劈いた。

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